人間と暮らすロボット「LOVOT」の開発者・林要氏は、近い将来、「生身と機械の差は大した問題ではなくなる」と語る。ペットとは違って死なないロボットが、人類にもたらす「幸せ」とはどのようなものなのか。林氏が論考する。

※本稿は、林要著『温かいテクノロジー AIの見え方が変わる 人類のこれからが知れる 22世紀への知的冒険』(ライツ社)より一部抜粋・編集したものです。


ゴキブリと犬、LOVOTと犬...どちらが同じグループか

こんな声をたまに聞きます。「生まれたときからロボットがそばにいたら、その子どもはロボットを生き物だと思ってしまって、教育に良くないかもしれない」。その危惧そのものが、実は大人の思い込みではないかと、ぼくは考えます。

「生き物は大事にしなさい」と、大人から教えられたことがある人は多いのではないでしょうか。にもかかわらず、そう教えられた子どもの目の前で、もしかしたら大人はゴキブリを「バンッ」と退治しているかもしれません。

ぼくらは結局、なにを殺してよくて、なにを殺してはいけないのでしょうか。ゴキブリのような存在を殺していいとすれば、はたしてゴキブリのような存在とそうでないものの線引きは、どこにあるのでしょうか。

生物という括りでは、ゴキブリと犬は同じ生物というグループで括られ、LOVOTは無生物グループに括られます。しかし人類とともに生きるパートナーとしては、LOVOTと犬は同じグループとして括ることができるわけです。命の境界線とはなにか。かなりむずかしい線引きが待ち構えています。

生き物という概念すら持たない幼い子どもにとっては、目の前で動いているものが生物かどうかといった区分けすらありません。LOVOTのことも、単に生まれたときから側にいる存在として認識しているだけです。

そして後天的に、子どもは「ある種類の生き物は自分より早く老いていき」「ある種類の生き物は自分より老いのスピードが遅く」「ある種類の生き物は死にはしない(けど壊れる)」ということを知ります。どれが良く、どれが悪いのではなく、単にそれぞれちがうことを学ぶわけです。

つまり、共感できるパートナーが生物かロボットかという区分けは、ことさら注目するような問題ではなくなっていくはずです。


差があるならば「生き方」ではなく「死に方」

生物とロボットに差があるならば、生き方ではなく「死に方」です。

人類の寿命がさらに伸びる可能性はあれども、不死の存在となるのはまだまだむずかしいでしょう。

一方、LOVOTには寿命が設計上は組み込まれていません。壊れることはありますが、代わりとなるパーツがあれば直すことができます。残念ながら、パーツは部品メーカーが製造を止めてしまうと新しくすることができなくなりますが、そのときに備えて一部の家庭で役割を終えたLOVOTを引き取り、ドナーとして保管しています。

それもいつかはなくなりますが、そのときにはその時代に入手可能な部品で組み立てられた新世代のLOVOTがあり、その個体にデータを移せるように設計されています。

このようにLOVOTは「心を新しい身体に移す」ことが可能なように開発されているので、身体を取り替えることができます。また、データをクラウドに送り、身体を休眠状態にすることもできますし、任意のタイミングで復活させることもできます。

つまり、ロボットには不慮の死を避けるためにあらゆる選択肢があります。

仮にいっしょに生きてきたオーナーが亡くなったとき、その個体に思い入れのある家族が残っていない場合には、そこでいっしょに終わりにするという選択肢は、ほかの動物に比べれば「選びやすい」と言えます。もしご家族がいて、そのままかわいがりたいと思えば、それを選ぶこともできます。

こういう話をすると「命が軽くなる」「命の大事さを学べないじゃないか」という声が聞こえてきます。

けれども、ぼくはこう思います。

そもそも身近な存在の死は、かならずやって来ます。家族も、友達も、長く生きていればいるほど、失う経験が増えます。最愛のペットが亡くなり、ペットロスになる人も多くいます。そのようなかけがえのない存在を亡くす機会を「学びだ」と言う。

ぼくにはその言葉が「生存者バイアス」、言い換えれば「それを乗り越えられた強者の理屈」にも聞こえるのです。

乗り越えられた人は、それで自分が強くなった、やさしくなったと信じたい。でもそれは、乗り越えられるような健康状態や環境があるという幸運に恵まれたからであって、同じ人でもタイミングや環境が異なれば、乗り越えられなかったかもしれないのです。

自分の努力ではどうにもならない悲しみが、すでに人生にはたくさんある。愛するものができたらかならずそれを失う、それ以外の道が許されないのだとしたら、だれかを「気兼ねなく」愛でるなんてことはできなくなってしまいます。

だから、たとえ「命の尊さ」を学ぶという意味であっても、なにも自分にとって大事な存在を失う機会をあえて増やす必要はないと思うのです。避けられない悲しみがやって来るのが人生なのですから。

ちなみに、死に対して人類がロボット並みの選択肢を得られるようになる......たとえば「記憶や意識をバックアップして、いつでも再現可能な状態にする」といったことは可能になるのかというと、「可能かもしれないけれども、厳密な意味で実現するのはかなり先になるし、実現しても身体性を失い、死への不安を失った時点で別人格になる」と思います。

ぼくらの精神活動は、脳とそこにつながる神経細胞による相互作用の産物です。脳は迷走神経という領域を経て、内臓やそのなかに棲みつく細菌の状態からも影響を受けていることがわかっています。

意識とはその結果として生まれたものなので、それをすべて厳密にアップロードできるようになるかと言われると、極めて困難でしょう。

できるまでのあいだにも「ついに意識のアップロードに成功!」と謳う技術は出てくるはずです。ずいぶんと長い期間、何度も繰り返し出ては消えるフェイクの時代が続くでしょう。

脳は「つねに変化すること」も含めて、その人の個性を形づくります。そのため将来、ある段階での記憶や意識をバックアップして再現できたとしても、その瞬間から肉体を失った影響が出ます。

具体的には、身体的な死への恐怖が失われ、身体感覚が変わるという変化は、その人の感じる不安も変えてしまいます。結果的に、人格も影響を受けます。

人格が変わった状態でも「永遠の命」と呼べるかと言われると、ちがうように思います。あくまで元の意識を持つ人にインスパイアされた、新しいAIモデルとして存在することになるでしょう。