他人を軽蔑して優越感に浸っても、心の安定を得ることはできません。それどころか、マイナスな感情を増幅させてしまうことも。僧侶の大愚元勝さんが、幸せを遠ざける考え方の悪いクセについて、仏教の教えをもとに語ります。

※本稿は、大愚元勝著『自分という壁 自分の心に振り回されない29の方法』(アスコム)より内容を一部抜粋・編集したものです。


相手を軽蔑したところで、自分のレベルが上がるわけではない

「慢」とは、他人のことを、自分より上か、下か、同じくらいかで判断したくなる衝動のことです。

この「慢」が原因で生まれる負の感情が「軽蔑」です。相手は自分よりも下であると見下したり、バカにしたりする際に生じる感情だからです。これは人間が本能的に持つものではなく、きわめて"社会的な感情"と位置づけることができます。

軽蔑は、私たちが生きるうえでまったく必要のない感情です。無意味で無価値。そう断じてしまっても構いません。自分が誰かのことを蔑んだとします。

「あいつは俺よりも学歴が低いから、たいしたことないな」
「あの子、たいしてかわいくもないのに無理して厚化粧しちゃって」

このように思うと、一瞬は優越感に浸れるかもしれません。でも、状況はなにも変わらないのです。誰かを軽蔑しても、仮にそれが客観的な事実であったとしても、あなた自身の能力が格段に上がるわけでも、容姿が良くなるわけでもありません。

著名人のスキャンダルに対してもそうです。ルックスも、経済力も、社会的知名度も、なにもかも自分とは別次元で勝てないと思っていたアイドルや俳優が、不祥事を起こしたり、異性関係のトラブルに巻き込まれたりすると、ここぞとばかりにバッシングを始める人がいます。

著名人を「そんなことをする人だとは思わなかった」と軽蔑して叩いて、不倫をしない自分、ドラッグなどに走らない自分のほうがマシだ、上だと思う。自分は正しく相手は間違っているのだ、自分のほうが優れているのだと思いたいわけです。

しかし、それになんの意味があるのでしょうか? どんなに対抗意識を燃やしたところで、あなた自身にも、あなたを取り巻く環境にも、いっさい変化が生じることはありません。

また、仮に純粋な気持ちで「相手に反省をしてほしい」と思ったとしても、直接の知り合いでもなんでもないあなたの言葉が相手の心に届いたり、「心を入れ替えよう」などと思ったりするはずもありません。

影響があるとしたら、昨今社会問題になっているような誹謗中傷の一環ととらえられ、相手の心身を追い込み、最悪な結果をまねくことに加担してしまうだけでしょう。

軽蔑をしても、なんの戒めにも救いにもならない。しかも、イライラした感情はあなたの心身に悪い影響を与え、自分が損をするだけで、決して幸せにはなれない。まずはこれを認識していただきたいと思います。


バカにするのではなく相手に寄り添う

誰かに対して軽蔑の念を抱いている自分に気づいたら、まずはその軽蔑の感情が、どんなタイプのものであるかを冷静に分析してみましょう。

「残念だな」「かわいそうだな」という哀れみに近い感情であれば、「軽蔑」を「同情」に置き換えられるように働きかけてください。同情とて、問題解決の決定打にはなりませんが、軽蔑よりははるかにまし。相手の気持ちを理解し、寄り添っていくことができるようになるからです。

相手の行動の裏側や真意を想像しようとしないことは、無知なる行為、すなわち「痴」になります。

例えば、食事のマナーが著しく悪かったり、言葉遣いが乱暴だったりする人がいたとしましょう。

それを目の当たりにして軽蔑したくなったとき、「最悪だな。どうしようもない。こうはなりたくない」ととらえるのではなく、「育ってきた環境があまり良くなかったのかな」「おそらくご両親の躾の問題であって、この人の責任ではないはず」「なにか精神的につらいことを抱えているのかな」などと考えるようにするのです。

ブッダは「人間は等しく愚かであり、誰もが病気を患っているようなもの」という見方をしています。パーフェクトな人間なんて、存在しません。蔑んでいる暇があったら同情してあげてください。

そうなってしまったのは仕方がない。その人だけが悪いわけではない。このように考えれば、ネガティブな感情を心の中で育てなくて済むようになります。あなたの精神状態は、今よりもいっそうおだやかなものになるでしょう。