昭和の歌姫と聞いて誰を思い浮かべるかは、人により世代により様々だろうが、昭和の最後を飾った歌姫としては、中森明菜を挙げるファンも少なくないだろう。『週刊ポスト』(4月16日発売号)では昭和のライバル史をテーマにした特集で、松田聖子と中森明菜の知られざるエピソードを紹介している。アイドル全盛と言われた1980年代、中森明菜はそれまでの常識を覆す「ツッパリ少女」のイメージで一世を風靡した。その姿は「ぶりっ子」と呼ばれた松田聖子と対照をなしたが、実はそれは本人の性格や意図とは違っていたのだという。当時、ワーナーミュージックで担当プロモーターを務めた田中良明氏(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)が、ファンも知らなかった中森明菜の素顔を明かした。

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 松田聖子さんは、本能的にプロデューサーやファンが自分に求めるものを理解している「芸能界の住人」でしたが、中森はそこにこだわらない歌手でした。むしろ常にファンを裏切ろうとしていたようにさえ見えました。だから、誰のこともライバルだとは思っていなかったのではないでしょうか。ある意味では無関心。少なくとも他の歌手やタレントの悪口を言うということは一切なかったですね。

 聖子さんは、スタジオに入ってきただけで場が華やぎます。それに対して中森は、ピーンと空気が張り詰めます。良くも悪くも緊張感をもたらす歌手でした。共演者のなかにも、ピリピリしている時の中森は嫌だという人がかなりいたのも確かです。先輩歌手やディレクターに挨拶する時にも、機嫌が悪ければ目がつり上がったままですから。それも本当に悪意はなくて、ひとつには自分の緊張を隠す意味合いもあったようです。

 全盛期の聖子さんと中森は、テレビ局で顔を合わせても表面上、笑顔で会話するだけという感じだったと思います。のちに大人になってからは互いを認め合い、楽曲をカバーし合ったりしていますが、それは二人が成熟してからの話です。中森はあまり聖子さんを意識していませんでしたし、聖子さんのほうは利口だから、共演すれば笑顔で接していたというところだったと思います。

 これは私が目の前で聞いた中森の言葉ですが、中学生の頃から憧れていた山口百恵さんと自分の違いをこんなふうに言っていました。

「百恵さんは横浜生まれの横須賀育ち。もうそれだけで私と違うでしょう。私、大森生まれの清瀬育ちだもんね。雰囲気が違いすぎるでしょう」

 見栄を張らない中森の性格が、この言葉に表れている気がします。ですから、憧れの存在だったとしても、衣装や歌唱法を真似るということは一切ありませんでしたね。

 本人は、それまでのアイドルとは全く違う世界観を作り上げようとしていたと思います。最先端ブランドだった「アーストンボラージュ」とか、バブル期に流行した「ネオジャパネスク」などの世界観を取り入れたかったんじゃないでしょうか。

 しかし、まだまだ芸能界は古い体質だったから、それについていけるスタッフは少なかったと思います。アイドルといえばミニのパラシュートスカートで腰を振って踊る、本人が不満を感じていても周りがなだめればいい、という風潮がありましたから、中森はそれに不信感を募らせていたかもしれません。「ツッパリ路線」も中森の本質とはマッチしていなかった。「禁区」くらいまでは仕方なくやっていたように見えました。「飾りじゃないのよ涙は」あたりから衣装も一気に変わっていきますが、それはようやく本人がセルフプロデュースできるようになったからです。

 スタッフに対する厳しい注文も、中森が最初からアイドルではなくアーティストだったからだと思います。