もはや、あの佐野眞一ではなかった…2人のデータマンが見た「ノンフィクションの巨人」最後の日々【2025年5月BEST】
プレジデントオンライン6/16(月)17:15

ノンフィクション作家・佐野眞一氏。1947年1月29日―2022年9月26日 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
■いつものどじょう料理店で
あの日も、私は二人と一緒だった。
2021年の冬。佐野さんが亡くなる1年半ほど前のことだ。場所は浅草のどじょう料理店だった。佐野さんはこの店をえらく気に入っていた。それまでも3人で何度か訪れたことがある。
その頃、3人で顔を合わせる機会は減っていた。久しぶりの会食だった。誘いの手順は変わっていなかった。いつものように佐野さんは佐藤さんに声をかけ、その後、私に「佐藤君も交えてメシでも食わないかい?」と電話をくれた。
声に張りがなかった。まだ立ち直ってはいないのだなあと感じた。
後に詳述することになる『週刊朝日』連載記事をめぐる一件(いわゆる差別記事事件)と、そこから派生した様々な“佐野眞一批判”は、当の本人を消耗させると同時に、佐野さんの周囲にいた人たちが離れていくきっかけにもなっていた。
私も佐野さんに対して、どこかうしろめたい気持ちがあった。ずっと慕ってはいたけれど、「事件」に関しては到底、佐野さんを弁護する気にはなれず、批判の記事を書いてもいた。差別問題を追い続けている私としては、人間関係を優先して「事件」を無視するわけにはいかなかったのだ。
それだけに、佐野さんが声をかけてくれたのは嬉しかった。
通いなれたどじょう料理店で、私たちはいつものように名物の柳川鍋を囲み、ビールを注ぎ合い、それぞれの近況を話した。そして共通の知人である記者や編集者の失態、メディアの惨状、さらには日本政府のバカさ加減を嘆いた。自分たちのことはひとまず棚に上げ、世を憂うのは、これまでにも酒が入るたびに繰り返されてきた我々の作法みたいなものだった。
だが――いつもと違ったのは、会話の中に以前のような“熱”がなかったことだ。佐野さんにも、佐藤さんにも、そして私にも。
酒は進み、どじょうは跡形もなく胃袋の中に消えたのに、誰かが吐き出した話題はいつのまにか揮発し、会話の接ぎ穂が消え、寄る辺を失くす。
要するに、盛り上がらなかった。
■「機会」は二度と訪れなかった
盛り上がるわけもなかった。佐野さんはまだ、“事件”の後遺症が消えていなかった。佐藤さんはライター稼業から離れており、夜勤が続く中で疲れきっていた。私は私で、目途の付かない取材に追われ、先行きも見えず、不安と焦燥の中にいた(いまもそうだが)。誰もが鬱々としたものを抱え、解決できない問題に苦しんでいた。酒は私たちの苦痛を和らげるものとはならず、不安を増幅させるだけの毒薬でしかなかった。それ以上に、私のうしろめたさと、それぞれが感じ始めていた“距離感”が、微妙に居心地の悪い空気を醸し出していた。
佐野さんは酔うのも早かった。ビールを日本酒に切り替えたあとは、ときおり舟をこぎ出した。
頃合いを見て、私たちは店を出た。支払いだけは、しっかり佐野さんに任せた。以前のように2件目に行こうとは誰も言わなかった。もはや体力的な限界にあることは、佐野さんのよろけた足取りが示していた。私と佐藤さんは、佐野さんを浅草駅の改札まで見送った。佐野さんは左右に軽くよろけながら、それでも片手を上げて「じゃあな」と地下ホームに消えて行った。
よろよろとおぼつかない足取りで、佐野さんは人生の終幕に向かって歩き始めた。
残された私と佐藤さんは、浅草の路上で、しばらく立ち話をした。
「ブルドーザーみたいな人だったのに、すっかり弱ってしまいましたね」
佐藤さんの言葉に、私は頷いた。
酒も弱くなった。言葉に力強さもない。どんなことも断定的に論じ、批判を許さず、強引に壁をぶち壊しながら前に進むような佐野さんは、もはやいなかった。
私たちは路地裏の暗がりの中でこそこそとタバコを吸いながら、何度もため息を繰り返した。
「こうした機会も減るかもしれませんね」と佐藤さんがつぶやいた。
その通りになった。正確には「機会」は二度と訪れなかった。
佐野さんと酒食を共にしたのは、そして、立っている佐野さんを見たのも、その日が最後となってしまったのだ。











