もはや、あの佐野眞一ではなかった…2人のデータマンが見た「ノンフィクションの巨人」最後の日々【2025年5月BEST】

プレジデントオンライン6/16(月)17:15

もはや、あの佐野眞一ではなかった…2人のデータマンが見た「ノンフィクションの巨人」最後の日々【2025年5月BEST】

ノンフィクション作家・佐野眞一氏。1947年1月29日―2022年9月26日 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

■撤退の道を模索していた毎日

私は90年代初めからスキャンダルとお色気記事で知られた週刊誌『週刊宝石』(光文社)の契約記者を務めていたが、2001年に同誌の廃刊が決まり、それからは様々な雑誌で取材記者を請け負いながら、細々とライター稼業を続けていた。

私はけっして「デキる」記者ではなかった。実用、グラビア、海外ルポ、経済、各種事件など様々な分野を担当したが、特に何かに秀でていたわけではなかった。特ダネを取ったこともない。『週刊宝石』廃刊直前、数人の契約記者をかき集めて記者労組を結成し、退職金を勝ち取ったことだけが唯一の“実績”という、版元からすればすこぶる危なっかしい使い勝手の悪いライターでもあった。

私は「退職金」と引き換えに光文社を離れた。同誌はしばらくして誌名や版型を変え、新たなビジネス週刊誌として再出発した。その際、『週刊宝石』の元記者たちの多くが会社に呼び戻されたが、私に声はかからなかった。会社に対していつもケンカ腰だった私が目障りだったか、単に記者としての実力不足から「戦力外」と判断されたのか、あるいはその両方が理由だったのか。

いずれにせよ、私は必要とされなかったことで、盛り場の流しのように、媒体を渡り歩くしかなかった。

需要は自分でつくるしかない。仕事を得るために、言葉を無理やり強奪する取材を繰り返していた。工事現場の見回りを装うため作業服を着て自転車にまたがり、取材対象者の自宅前で張り込み、ドアが開いた瞬間に突進するという質(たち)の悪い刑事のまねごとのようなことばかりしていた。しかも多くの場合、何の収穫もなく「○○は取材に応じることなく無言を通した」みたいな、どうしようもない記事しか書くことができなかった。

正直、そんな生活に疲れていた。飽き飽きしていた。倦怠と絶望に襲われながら、撤退の道を模索していた。いったい、自分は何をしてるんだろう。社会に問題提起するとか、権力や大資本を追い詰めるとか、それなりの青臭い目的があって週刊誌記者となったのに、しかも「自由」を求めてフリーランスとなったのに、主体性を失い「不自由」の度合いは増すばかりだった。

こんな仕事は向いていないんじゃないかと思った。作業服を着たまま、取材経費で落とした新品のママチャリを漕いで、誰も知らない遠くの町へ行ってしまおうかと真剣に考えた。まだそのくらいの若さは持ち合わせていたはずだった。

まさにそんなとき、ライター稼業からの足抜けを考えていた真っ最中に、私は佐藤さんから「佐野さんと会ってほしい」と電話で伝えられたのである。乗り気にならなかったのは当然だった。帰宅途中に突然、急ぎの仕事を任されたようなものだ。面倒で仕方なかった。

その数日後、とりあえず佐野さんの顔だけでも拝んでおくかという気持ちで、私は指定された帝国ホテルのラウンジに向かった。

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