もはや、あの佐野眞一ではなかった…2人のデータマンが見た「ノンフィクションの巨人」最後の日々【2025年5月BEST】
プレジデントオンライン6/16(月)17:15

ノンフィクション作家・佐野眞一氏。1947年1月29日―2022年9月26日 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
■もう一軒、そこがダメならもう一軒
私たちは佐野さんが残した様々な記憶を繙(ひもと)いては、それをサカナに飲み続けた。
私と佐藤さんの中で生き続ける佐野さんの姿は美しい。そう、あの「事件」と晩年の姿だけは切り離して、思い出話に浸った。
一時期、私たちはいつも一緒だった。
都心の雑踏を、近郊の住宅地を、地名すら聞いたことのなかった見知らぬ町を、いつも3人で歩き回った。
何度、一緒に地方都市を訪ねたことだろう。
夕陽が沈む。黄昏が消えていく。遠くに見える山の稜線は輪郭をなくし、夕闇が周囲の風景を覆い隠す。
「もう帰りましょう」と喉元まで出かかってはいるのだが、いつも佐野さんの巨体は私たちのはるか先を急いでいた。
何もそんなに急がなくてもいいのに。
あの頃――佐野さんは取材を簡単に諦めるような人じゃなかった。そして、せっかちだった。
関係者を探し求めて、ひたすら家のドアを叩き続けた。
「もう一軒、当たってみようか」
はいはい、そうおっしゃるのならば。
もう一軒。そこがダメならもう一軒。不在でも、断られても、結局、聞き込みは終わらない。「もう一軒」は延々と続く。
ノンフィクションライターとは、こうしてしんどい作業を繰り返すものなのだと、私は佐野さんのいかつい背中を追いかけながら学んだ。
■取材相手の気持ちをほぐす役割
佐野さんは一流の「人たらし」でもあった。
私なんぞは記者時代の癖が抜けず、強引に言葉を奪い取るような取材をいまも繰り返しているが、佐野さんは違った。取材相手が大物政治家であろうが、町のチンピラであろうが、図々しいくらいに懐へ飛び込み、気が付けば家に上がり込んで一緒に酒を酌み交わしているような場面を、幾度となく目にしている。
ちなみに佐藤さんも、なぜか取材先で気に入られることの多い“人間力”を持っていた。佐藤さんは取材相手の自宅を訪ねると、必ず「お仏壇はありますか?」と聞いた。用意してくれた茶菓子には目もくれずに仏壇へ直行すると、線香に火をつけ、私には意味のさっぱり分からぬ経を唱える。読経を終えるまで取材は始まらない。その間、私も佐野さんも、とにかくその場にいる取材相手も含め、皆で待っていなければならないのだ。そんな取材前の“儀式”は、ときに固く閉ざされた取材相手の気持ちをほぐす役割をも果たした。
それでも、私と佐藤さんは、あくまでも佐野さんの手足に過ぎなかった。
そして、私たちは親分然とした佐野さんを受け入れていた。敬意も持っていた。憧れてもいた。
肩を左右に揺らし、まるでキャッチセールスのように人を選ばず声をかけ、取材がうまくいってもいかなくても、飲み屋で大酒を食らってから一日を終える佐野さんの姿を、私は忘れることができない。
私は佐野さんを追いかけてきたのだった。息切れしながら。たまに舌打ちしながら。小さな悪罵をもぶつけながら。
だからこそ、晩年の佐野さんに会うのはつらかった。正直、疎遠になった。互いに遠慮もあったのだと思う。佐藤さんとも会う機会が減った。佐藤さんは思うことがあって出版業界を離れ、前述したように警備員の仕事に就いた。夜勤の多い佐藤さんと、会うための時間をつくるのも難しくなった。
それぞれが、それぞれの道を進むしかなかった。











