新疆ウイグル自治区は中国の最西部に位置するが、中央アジアに位置するともいえる。幾多の文明文化が行き交った地帯である。それらを運んだのは人々であり、諸民族が興亡を繰り返してきたことにより、新疆の歴史を僅かな紙面でまとめるのは容易ではない。新疆ウイグル自治区人民政府外事弁公室編『シルクロードの十字路 新疆概覧』(山口昭ほか訳・文芸社2003)などを参考にしつつ略記する。

新疆博物館に展示されている発掘品の数々が6000〜7000年前の新石器時代から新疆各地で人々が暮らしていたことを物語っている。前漢(BC206-AD8)〜後漢(AD25-220)時代には「西域」と呼ばれていた。当時より堅崑・塞種・車師・月氏・烏孫・羌・大夏など多民族が居住。『漢書・西域伝』に登場する「西域36国」、鄯善国(現ローラン)・亀茲国(現クチャ)・于闐国(現ホータン)・姑墨国(現アクス)・車師国(現トルファン)・精絶国(現ニヤ遺跡)などオアシス都市国家が東西南北の交易で栄えていた。BC138年前漢の使者として張騫が調査し、中原王朝との経済文化交流が始まった。BC60年前漢が「烏塁城」(現クチャ東方)に西域経営の役所「西域都護府」を設置、これにより西域は正式に中原王朝の管轄地となった。役人・軍人・商人など漢族が増え始めた。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」で日本でも知られる「班超」は歴代の都護(都護府の長官)の一人である。

漢代以後の歴代王朝も西域に役所を置いた。327年には前涼王朝が現トルファンに高昌郡を設置した。609年には隋王朝が鄯善郡・且末郡・伊吾郡を、640年に唐王朝が西州・庭州を設置し、高昌に西州都護府を、702年には北庭都護府を開設した。9世紀半ばキルギス人の攻撃を受けた回鶻人(現ウイグル族)が移動してきて、焉耆(現カラシャール)に安西回鶻国を建て、唐王朝より冊封を受けた。その後もカラハン国・于闐黒汗王国など地方政権が現れた。1124年遼が金に破れ契丹の那津大石が西域に西涼を建てた。1218年チンギスハンが西涼を滅ぼし、元を建てた。元につづく明王朝も西域各地に官員を派遣し続けた。

清王朝乾隆帝は西域の反乱を平定し領土を拡げ、「新疆」(新しい境)と称した。1762年には伊犁将軍府を設置した。アヘン戦争(1840〜42)以後、新疆をふくむ中央アジアはロシア帝国と大英帝国の勢力争いに巻き込まれた。いわゆる「グレートゲーム」である。ロシアとの「北京条約」(1860)「イリ条約」(1881)などの不平等条約により新疆の一部がロシアに占拠されたが、清朝は左宗棠を派遣し、戦火を交えロシアを撤退させ、大英帝国を後ろ盾とするヤクブベクにも打撃を与えた。1884年「新疆省」(左宗棠「故土新帰」=失った地が新たに戻ったに由来)が成立した。1933年大英帝国支援の南疆での画策は数ヵ月で消滅し、1944年以降のロシア支援の北疆での「三区革命」は中国共産党活動へ吸収された。

1949年9月25日、新疆は人民解放軍により国民党政府から解放された。同年10月1日、中華人民共和国が成立し、1955年10月1日「新疆ウイグル自治区」が成立した。2021年は成立66周年にあたる。66は中国では「全てが順調にいく」という目出度い数字である。

ご参考:1884年「新疆省」成立前後の歴史史料130点を鮮明な写真とCD-ROMで収録した貴重書『清代新疆建置档案史料』(新疆ウイグル自治区档案館&佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構編・中日英文・新疆美術撮影出版社・2010)は日本にも輸入されている。