2022年6月20日、華字メディア・日本華僑報網は、「日本語における『いただきます』はどれほど重要なのか」とする文章を掲載した。以下はその概要。

古代の日本人は神様にお供物をする際、儀式が終わるとお供物をみんなでシェアして食べることができた。その際、神様に供えた物を食べるという畏怖と謙卑の気持ちから「いただきます」という表現が用いられるようになったという。時代が下ると人びとはますます身分を重んじるようになっていった。そこで、年長者や上司など自らより身分や地位が高い人物から食べ物をもらう時には「相手から賜った恩恵を拝受する」という気持ちを込めて「いただきます」と言うようになった。

それが現代になると、食事を始める合図としての言葉に変化していった。もちろんそこには地位の高い人や年長者への感謝の意味が含まれているのだか、それだけでなく、自分においしい物を食べさせてくれるすべての人、物に対する感謝の気持ちも込められるようになった。具体的に言えば、料理を作ってくれた家族、あるいは店のコック、家政婦やレストランの給仕係、さらには漁師や畜産業者、農家に至るまでだ。

また、昭和の後期からは食べ物の大切さと生活上の礼儀を教育する目的で、「いただきます」という言葉に食材への感謝という意味も追加された。すなわち、肉にしろ魚にしろ野菜にしろ果物にしろ、すべて命ある存在であり、これらの命による犠牲のもとに人類の命が続いているから、無駄にしてはいけない、ということである。それ故、食事の前には謹んで感謝の心を示し、両手をあわせて「いただきます」と唱えてから食事を始めるのだ。

しかし、現代の社会の発展に伴って日本人の考え方も変化しており、食事前の「いただきます」という言葉をめぐってもさまざまな意見が見られるようになった。飲食店ではお金を払って料理を食べるのだから、コックや店員に対して「いただきます」を言う必要はない、と主張する人も出てきた。もちろん、この主張に異を唱える人はたくさんいる。

ネット上の議論で、日本のある文化学者が「ニンジンは自らの命を犠牲にして食べ物となってくれるし、卵もふ化するチャンスを放棄して食べさせてくれる」と論じているのを見たときは驚いた。そこまで考えていては、まともに食事ができなくなってしまわないだろうか。(翻訳・編集/川尻)