教訓忘れない勇気を持つ

 新型コロナウイルス感染症を総括する本が書店で見られるようになってきた。一方ここへきて日本は新規感染者数が世界1位。死亡者数も大きくは減っていない。それなのに私たちは疲れることにすら疲れて、もはやどうでも良いと早くも新型コロナを忘れようとしている。

 アメリカ在住の医療人文学者が新型コロナ拡大のさなかに出した『パンデミックから何を学ぶか』は、18世紀の天然痘やペストの時代から現代の新型コロナに至るまでを振り返り、30の教訓を提示する。だが読みながら私は実のところ、本書の主題は「人間は忘れてしまう生きものである」というただひとつの教訓に集約されると感じていた。

 人間味溢れる著者の立ち位置は明確だ。教訓1は「女たちの声を聞け」であり、著者は自分が女性であることを自覚し、社会的弱者の立場にある人々の思いを掬い上げる。エドワード・ジェンナーのワクチン“発明”より20年以上早く、イギリス大使の妻メアリー・モンタギューがトルコで見た方法を真似て、健常者の腕に軽い傷をつけ天然痘患者の膿を塗って予防治療とした。著者はこうした事実を掘り起こし、だがワクチン接種が文明社会に普及するには当時ジェンナーという男性医師の権威が必要だったことを指摘する。文学という形態が誕生したころダニエル・デフォーはフィクションとノンフィクションの双方でペストの記憶を書き残したが、彼の小説には刻々と移り変わる感染者数の集計表が現れ、それだけで“物語”の危険性を生んでしまうことも著者は示す。

 19世紀後半の科学発展時代になると人々は「万能薬」を求め、感染症を戦争のメタファーで捉え、完全勝利を願ってやまない。だが感染症を征圧するかもしれない科学的“事実”がその時代の権力に都合の良い幻想に取り込まれてしまうと、やはり人は性感染症の名のもとに同性愛者を排除し、風土病の名のもとに“未開の地”からの到来者を追いやり、挙げ句の果てに見えない振りをしてしまう。

 確かにそのとおりだ。しかし逆にいえば、すでに私たちは著者の示す30の教訓をずっと前から知っていたということではないか。そして私たちは教訓を忘れる生きものであるが故に、いざというときの創意工夫や想像力さえも忘れてしまっていたのではないか。

 本書はコミュニティと創造力(クリエイティヴィティ)とコミュニケーションの必要性を説いて終わる。だがそれらさえ私たちはすでに知っていた教訓だ。その3つで本当に問題が克服できるならば、なるほどそれは素晴らしいことだ。しかしこれも私たちが忘れていることだが、まったく同じ性質のパンデミックが再来することはない。多くの専門知を身に着けるリベラルアーツは確かに重要だが、その基盤は前提に過ぎない。そのうえでいかに新しい知を人々に示せるか、その真に人間らしいしなやかさと想像力が私たちには必要だ。まず本書のように「自分は教訓を忘れているかもしれない」ことを決して忘れない勇気、すべてはそこから始まるのだ。

(カリ・ニクソン著、桐谷知未訳、みすず書房刊、3740円税込)

選者:小説家 瀬名 秀明(せな ひであき)
1968年静岡県生まれ。95年『パラサイト・イヴ』でデビュー。近著に『ポロック生命体』『ウイルスVS人類』など。

 書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。