プロボクシングのスーパーバンタム級の4団体統一王者、井上尚弥(31、大橋)が29日、横浜の大橋ジムで練習を再開した。9月に予定している次戦の防衛戦相手は、WBO&IBF世界同級1位の指名挑戦者のサム・グッドマン(25、豪州)が有力だったが、現地で7月10日に調整試合を行うことを発表し対戦を見送ったため、元IBF世界同級王者のTJ・ドヘニー(37、アイルランド)に変更となる方向。井上は東京ドームのリングにグッドマンを上げたことを「勘違い」と説明。またフェザー級の世界王者達からの“挑戦状”が相次いでいるが「そんなに対戦したいなら階級を下げてこい!」との怒りを口にした。

 「向こうが断ったという理由でベルトを剥奪されたら納得できない」

 とんだ騒動に巻き込まれた。
井上の本格的な練習再開となったこの日、当初、9月の防衛戦の最有力候補だったWBOとIBFの2団体の指名挑戦者グッドマンが、豪州シドニーの南西部にあるウーロンゴンで会見を開き、7月10日に当地でWBCアジア同級王者(日本非公認)でWBC同級8位のチャイノイ・ウォラウット(タイ)とノンタイトル戦を行うと発表したのだ。
大橋会長は「まだ交渉の余地は残している。次戦は未定です」と言葉を濁したが、指名挑戦者の敵前逃亡という、まさかの事態で、元IBF世界同級王者のTJ・ドヘニーとの対戦が最有力となった。
「ボクシング“あるある”ですね」
井上はそう評して苦笑いを浮かべた。
井上はルイス・ネリ(メキシコ)を6回TKOに沈めた感動の東京ドームのリングにグッドマンを迎え入れ「次戦、9月頃、隣にいるグッドマンとの防衛戦をこれから交渉していきたい」と呼びかけ、グッドマンも、「自分もベルトが欲しくてここまで戦ってきた。絶対にやりましょう」と応じる事実上の“発表セレモニー”を行っていた。
「ちょっと試合前に聞いていた話を誤解していた。すでに交渉し9月(に対戦する)と勘違いして僕が先走ってリングに上げちゃったら(実際の交渉状況は)全然違っていた」
申し訳なさそうに“裏事情”を説明したが、勘違いするのも無理はない。
挑戦者側が王者側からの対戦オファーを断り指名試合を見送って「12月にやらせて欲しい」などという都合のいい行動に出るのは想定外だろう。大橋会長も「聞いたことがない」と困惑する。
それでも井上に怒りはなく、むしろその決断に理解を示した。
「お金が目当てではないんだなと。チャンピオンになりたい気持ちがあるというのをちょっと感じました。(フェザー級に転向してベルトの)返上を待っているのかわかんないですが、時期やタイミングもあるんでしょう」
米の権威あるリング誌や現地メディアのCODEスポーツによると、グッドマンは会見で、7月に調整試合を挟んだ理由をこう語ったという。
「これは私のチームが考え出した計画だ。私は自分のチームと彼らの計画を信頼している。モンスターと戦うだけでなく彼を倒すために可能な限り最高のレベルに上げようということだ。井上と対戦する前に世界レベルのテストがもう一度必要なのだ」
フォックス・スポーツ豪州版などは、グッドマンが井上と戦う場合のファイトマネーが100万ドル(約1億5700万円)になるとも報じていた。元2階級制覇王者のネリのファイトマネーを参考にした数字で世界初挑戦で日本では無名のグッドマンにそんな金額は出さないだろうが、過去最高のファイトマネーを手にすることは間違いない。もし26戦無敗のタイ人に7月の調整試合で負ければ、1位からは陥落し、井上への挑戦チャンスが消滅するというリスクがある。
それでもグッドマンは「お金がすべてではない。私は億万長者になるためにこのスポーツを始めたわけではない。お金は優先しないし、私にとっては(世界の)ベルトがすべてなんだ」と明かしている。
井上は同じボクサーとしてグッドマンの心情に理解を示した。
ただ「僕は誰でもいい。ただ向こうが断ったという理由で(ベルトを)剥奪されるのは納得できない」とだけは付け加えた。
井上が持つ4つのベルトには、それぞれ指名試合を行う義務があり、指名試合の期限を守らなかったり、実行しなかった場合にはベルトを剥奪される。だが、今回は井上側の対戦オファーを指名挑戦者側が見送るという異例のパターン。事情に詳しい関係者は「逆にグッドマンが指名挑戦権を剥奪される可能性がある」とも指摘している。

 異例の事態を受けて9月の対戦相手はドヘニーが最有力となった。元IBF世界同級王者。東京ドーム大会のオープニングマッチにネリが体重超過した場合のリザーブ選手として登場、ブリル・バヨゴス(フィリピン)を4回TKOに沈めた。サウスポーで真っ向打ち合う超好戦的スタイル。26勝(20KO)4敗の戦績と、そのムキムキの肉体が示す通りに、この階級では屈指のパワーがある。
大橋会長が「3連勝しているし、もしネリがダメでドヘニーが来たらやり辛いよなという話をしていた」と警戒するハードパンチャーだ。
井上は「ドヘニーも候補としてあがっている。頭の片隅にはある。これから交渉が進むと思う。自分はフラットな状態で練習を再開しようと思っている」と多くを語らなかった。
ドヘニーは昨年3月に豪州に乗り込みIBFインターコンチネンタル&WBOオリエンタルス―パーバンタム級タイトルマッチとして、2冠王者のグッドマンに挑戦、3回にカウンターの左フックを浴びてダウンを喫し、ジャッジの1人がフルマークをつける大差の0−3判定で敗れている。その後、再起して3連勝はしているが、井上がどうモチベーションを維持するかは不安材料ではある。
ただ井上は「それはない。誰が相手でも強さを見せる意味では変わりはないかな」とキッパリ否定。「右(構え)か左(同)かだけがなんとなくわかっていればスパーリングがやりやすい。本格的に相手をイメージして詰めていくのは、1か月半とか、1か月前なので焦りはない」と続けた。
グッドマンが対戦を見送った一方で対戦を熱望する声は後を絶たない。それもスーパーバンタム級ではなくひとつ階級が上のフェザー級王者からだ。IBF世界フェザー級王者のルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ)は、「ドリームファイト」と書かれたフェイクポスターまで作ってXに投稿して対戦をアピール。プロモーターは「KOで勝てる。家を賭けてもいい」とまで豪語した。
WBA世界同級王者のレイモンド・フォード(米国)のプロモーターを務めるマッチルーム社のエディ・ハーン氏も「井上はどこかの時点でフェザー級に階級を上げるだろう。それはフォードがスーパーフェザー級に階級を上げる前に行うフェザー級での試合になるかもしれない。ビッグマネーのイベントになるのは明らかだ」などとコメントしている。
また井上は、ネリ戦を評価されてリング誌が定めるパウンド・フォー・パウンド(階級関係無しの最強ランキング)の1位に2年ぶりに返り咲いたが、5月18日にタイソン・フューリー(英国)に判定勝利してヘビー級の4団体統一王者となったオレクサンドル・ウシク(ウクライナ)に追い抜かれて“10日天下”に終わった。
その際「誰が1位にふさわしいか?」の論争が起き「もう井上がスーパーバンタム級で戦うべき相手はいない。階級を上げるべきだ」の意見が多く見られた。
これらの報道は井上の目に留まっており、「それに関しては言いたいことが色々ある」と怒りの持論を展開させた。
「スーパーバンタム級に敵がいないから(階級を)上げろ!というのもおかしい。そんなに対戦したいならおまえらが(階級を)下げてこいという話だし、ボクシングは階級制のスポーツなんだから。自分にも限界はある。フェザー級にいく準備はしているが、そこ(いつのタイミングか)は、まだなんとも言えない」

 まだスーパーバンタム級に転向して3戦を終えたばかり。いかに階級転向が大変なことであるかを理解せぬまま盛り上がっている論争やフェザー級王者からの勝手な対戦要求へ言葉では言い尽くせない憤りがある。
スーパーバンタム級には戦うべき“刺客”が残っている。
WBAの指名挑戦者である元WBA&IBF世界同級王者のムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)に大橋会長は「カシメロもいる」と元3階級制覇王者のジョンリエル・カシメロ(フィリピン)の名前も付け加えた。元IBF世界スーパーバンタム級王者の小國以載(角海老宝石)との前哨戦が負傷ドローとなり評価を下げたが、WBO3位にランクされており、井上との因縁もある。またグッドマンが指名挑戦権を維持していれば彼との対戦も避けては通れない。陣営では、年内12月にもう1試合、国内での防衛戦を予定しており、大橋会長は「あと3試合はスーパーバンタム級で」との方向性を明かした。
井上はパウンド・フォー・パウンド1位の奪回については「ウシクはヘビー級という階級だし、しっかりと試合は見ていないが、そういう試合をして選ばれたのであれば言うことがない。自分のボクシングを見せてまた1位に返り咲けたらいいと思っている」との意気込みを口にした。
この日、井上は、シャドー、サンドバッグ、ミット打ちまでの練習を公開した。
「何も考えずに過ごすことで精神的な疲れを抜いた。体力的、肉体的に問題はなくても感じていないストレスがある。一旦フラットにして今日から練習再開です」
ミット打ちでは正確なジャブが印象的だった。
「まずは基礎から土台を作っていく」
東京ドーム決戦を終えて「外を歩けない」ほどの反響があった。
さらに増した期待と4団体王者の責任感がモンスターをさらに巨大にしていく。6月6日には昨年日本人として初受賞した最優秀選手賞(シュガー・レイ・ロビンソン賞)の受賞式を兼ねた全米ボクシング記者協会(BWAA)のニューヨークでの夕食会に出席し、プライベートで交流のないわけではない大谷翔平の所属するドジャース対ヤンキースの試合を観戦予定だ。

 (文責・本郷陽一/RONSPO、スポーツタイムズ通信社)