42歳厄年のフリート横田と申します。『散歩の達人』編集部からはじめて仕事を依頼されたのは確か14、5年前。20代後半でした。当時から古びたもの、じいちゃんばあちゃんたちの昔話が好きでしたが、立ち飲み屋や大衆酒場などの渋い飲み屋さんにはまだそれほどなじみがなく、編集部の「取材してきて」の声に背中を押されて、おっかなびっくり出向くようになったものでした。あのころが昨日のことのように思い出されます。中年とは、すぐ過去を懐かしむ生き物です。 おかげさまで今では夜の街が大好きになってしまい、飲みに行ったら仕上げにスナックで一曲ママとデュエットしないと終電に乗り込めない体にまで成長してしまいました。ありがとうございます。このたび、そんな大恩ある散達のウェブマガジン「さんたつ」で連載スタートできますこと、うれしく思います。 あれから僕は何かを信じてこれたかなぁと振り返ると、ひとつ確信をもつに至った感覚がありますね。ここ数年、古老の聞き取りから本を書いたりしながら実感する、じいちゃんばあちゃん世代の生きた証しは、そのまま「記録されない戦後史そのもの」だな、ということ。 加えて、あの時代の人々の躍動を描いた回想録や手記、記録を読むことにも、話を聞くことと同じくらいの教えがあります。読むことで、昔話が実話だったのだ、と答え合わせになったりもしますね。この連載では、路地での現実の出会いか資料上での出会いか、有名無名かも問わず、昭和の街や人と記憶、思いを、私なりに書いていこうと思います。

上野のやさしさ、柔らかさを思い出す場所

第一回目は上野のことを。この街の匂いが昔から好きで、遊び方にも私は定番ルートを持っています。まずは昼メシ。カレースタンド『クラウンエース』でカツカレーをかっこむか、上野〜御徒町界隈でしのぎを削る回転寿司店に飛び込みます。腹がふくれたら、ぶらぶらしながら純喫茶の『王城』か『ギャラン』でアイコの一休み。腹がなごんだらさあいよいよ酒。生魚の匂いと店員のおっちゃんたちのダミ声を感じながらアメ横ガード下を突っ切って、立ち飲みの『たきおか』あたりでおしんことウーロンハイ。これですよ。昼から赤い顔で全然OKだし、つっかけで歩き回っても自然。みちのくへの出発地であり終着地である上野は今も、首都中心部のターミナル駅でありながらどこか我がふるさと北関東の匂いがします。街からやさしさを感じませんか? ほろ酔いになったら日が暮れるまでどこかで飲み直してもいいのですが、ひとつ提案したいのが、不忍池。

中央通りを渡り、ぶらぶら成人映画館「オークラ劇場」を過ぎたあたりまで歩いてくると、風の匂いが変わります。一面の蓮の池を眺めながらほとりのベンチにひとり座りクールダウンする。池を見てぼんやりしているうちに、ふと、昔から変わらない上野のやさしさ、柔らかさをまた思いだしてくるんですね。一例をひきます。蓮の花が静かに揺れているこの池、実は数十年前の一時、田んぼに変身しました。へ?と思うでしょうが、終戦後から3年間、ほんとうにそうでした。

飢えている人のために奔走した人物

ご存知のように戦中戦後の食糧難はひどいなんてものではありませんでしたが、それにしても徳川家の菩提寺、寛永寺のある由緒ある池を田んぼにしてコメを作るなんて当時でも突飛な発想でした。無理やりこの話を進め、実現させた、Sという人物がいたのです(Sのことについては、拙著『横丁の戦後史』に記してますのでよろしければ)。まったくのノーマーク。一切知らないこの人物の名前は、とあるじいちゃんの昔話に突如登場したのです。

ほとんど歴史に記録されていない人ですが、元は特攻隊にいて復員後上野に流れ着き、ある様を見てショックを受けます。それは駅のガード下に無数にたむろする子供達。いわゆる「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児です。

住むところなく、誰からも守ってもらえない子供たちに、かろうじて雨露だけはしのがせる場を提供したのも上野でした。ただ食うものはまったくなく、日々餓死者が出ます。このSは大八車に子供の遺体を乗せて皇居にまで行って偉い人々に見せつけようとまで思いつめます。激情の人物ですね。この型の人物、私はどうも惹かれてしまいます。

その後、戦災者救済会という会を作って、旧陸海軍や都の物資をひっぱりだそうと走り回ります。突っぱねられると、偉い人(都知事など!)に殴りかかったりして、これはいただけない行為ながら物資を手中にし、さらには不思議とその後殴られた人たちと親交を結ぶんです。

殴られた行政のお偉方たちが、訴えもしない? 結局Sの話を聞いてしまいました。それは、飢えている人のために動こうとした一途さの説得力ですね。このSが食糧増産のために目を付けたのが、不忍池でした。土地なき東京にあって、「あそこは手つかずの肥沃な湿地なのだ」と見立てた常識外の発想ができるS。まだ二十代前半の若者でした。

結局、不忍池は三年間田んぼとして米を生んだ

昭和22年(1947)、不忍池の田んぼを耕す人々。(写真=毎日新聞社)
昭和22年(1947)、不忍池の田んぼを耕す人々。(写真=毎日新聞社)

宮様も視察に訪れるほどの支持を集めます。終戦翌年、孤児の子供たちも田植えや稲刈りをやって、結局、不忍池から150俵のコメがとれ大豊作。翌年も翌々年も……ところがここでまた悪い癖が。

「池を田んぼにするとは何事だ」と中止を求めにきたある偉い人を殴りつけてしまいます。ただこのときも大問題にはなりませんでした。「食い物がない」といつも感じている庶民たちは、Sの行動のほうによほど同情的だったからです。結局そんなこともあり昭和23年まで三年間も米を生んだ田んぼ。昭和24年に、池に戻りました。

ほとんど記録もなく、正史に隠れるように姿を消してしまったS。終戦直後の混乱期だからこそ活躍できた人物かもしれません。こういう名もなき人の躍動を、街を歩きながら追憶するのも私は好きです。水面で揺れる薄紅色の蓮の花はなにも語りません。ほろ酔いの頭だからでしょうか。上野の街のやさしさと包容力を、ベンチに座り、風に吹かれるたび、なんとなく感じます。

 

と言ってるうちに日が暮れました。定番ルートの総仕上げ、上野一の歓楽街・仲町通りへいざ!……と言いたいところですが、今はお預けですね……。ギラギラのネオンと、はやくのびのび濃厚接触したいものです……。

文=フリート横田

フリート横田
文筆家、路地徘徊家
戦後〜高度成長期の古老の昔話を求めて街を徘徊。昭和や盛り場にまつわるエッセイやコラムを雑誌やウェブメディアで連載。近著は『横丁の戦後史』(中央公論新社)。現在、新刊を執筆中。