以前、友人と2人でとある温泉地へ旅行したときのこと。夕食後、せっかくなので地方のスナックに行ってみたいねという話になった。地元の同級生がいつもスナックで飲んでいるという話を聞き、私も大人の嗜みとしてスナックを経験しておきたいと思ったのだ。 店前に着いた。が、重厚な木製の扉で中の様子は全く見えない。勇気を出して開くと、カウンターに二人組が座っている以外に客はいなかった。よかった、空いていたと胸を撫でおろし、店員に「今から2人いけますか?」と尋ねたところ、彼女はなぜか気まずそうな顔で「……ちょっと確認しますね」と言い、店の奥の女性と小声でやりとりした末、「すいません、今日予約でいっぱいなんです」と私に告げたのである。 店員間の不自然なやりとりの様子から、嘘の理由をつけて断られたのだとわかった。本当に予約がいっぱいならば、尋ねる前から把握していたはずだ。なぜ入店を断られたのかわからず不満だったが、ともかく入れないのなら仕方ない。気を取り直して2軒、3軒とスナックをまわったが、どの店でも似たような態度で断られ、結局その日スナックに行くのは諦めた。 帰り道、一体何が原因だったのかと話し合った。もしかしたら私たちが旅館の浴衣を着ていたのがいけなかったのかもしれない。店にいた客はみんな普段どおりの服装をしており、観光客ではない現地の人のように見えた。スナックにもそれなりのドレスコードがあるのか。それとも浮かれた観光客は鬱陶しいので入店させないようにしているのだろうか。はっきりした理由はわからずとも、私たちが知らぬ間に暗黙の了解を侵していたのは確かなようだった。 そういった暗黙の了解は、スナック以外にも、ちょっと敷居の高い飲食店に行けばしばしば遭遇する。食べ終わったラーメンの器をカウンターの上段に上げるべきか否か。食べながらスマホをいじっていると怒られやしないか。注意書きでも書いておいてくれればいいが何の説明もない場合もある。やがて店員があからさまに愛想が悪くなったのを見て、何かやってしまったようだと察する。あとで店のしきたりをネットで調べ、確かに自分が知らず知らずのうちに無粋な行動をとっていたのだと反省することもあるが、何度思い返しても納得のいかないこともある。 数年前のある日。左右というバンドをやっている友人の花池君、デイリーポータルZでライターをしている大北さんと千葉で取材した帰り、せっかくだから下町の老舗居酒屋に寄って帰ろうということになった。電車の中で大北さんが検索して見つけたその居酒屋は、決して高級店ではなく、値段は安いが味は確かで、いつも常連客で賑わっていると評判の、いかにも私たちが好きそうな店だった。 暖簾をくぐると店内は老舗感にあふれていた。私は床が油でベトベトだとか天井が炭で真っ黒だとか、そういった古い店の汚さは気にならない質だ。ただ、奥の座敷へ通された時、観光みやげのペナントや将棋の駒の置物などが壁際に雑然と並んでおり、その「他人の家っぽさ」を少し苦手に感じた。

あの、おすすめは……

ひとまず飲み物を注文しようと声をかけると、やってきたのはいかにも老舗居酒屋にいそうな50代くらいのベテラン風女性店員。その接客はきちんと注文が通っているのかもわからないぶっきらぼうなものだったが、下町の居酒屋はこのくらいでいい。「いらっしゃいませ!!」とアルバイトが大声で唱和する大手チェーンの接客の方が異常なのだ。そんなことを思いながらしみじみと瓶ビールを飲んでいると、カウンターに戻った女性店員は常連客に対し「○○ちゃん、いつものでいい?」と私たちを相手にしたときとは打って変わった愛想のよさを見せており、その温度差に戸惑った。

ビールを飲み干し、食べ物を注文しようと再びさっきの店員を呼んだ。そのとき、花池君が気を利かせて「この店のおすすめは何ですか?」と尋ねた。店員はフッと鼻で笑い、「お客さん、この店は初めてですよね」と言った。花池君が「はい、初めてです」と返したが、店員は何も喋らない。こちらの質問を忘れてしまったのだろうか。不可解な数秒が流れ、再び花池君が「あの、おすすめは……」と切り出すと、店員は呆れた表情で「おすすめはありません」と返したのである。

なんだそれは。そんな返答があるのか。私は反射的にイラっとしたが、大人な2人が「ああ、じゃあこの煮つけで」と適当に頼んでその場を収めた。店を出たあと、なんだあの店員、おすすめがないってどういうことだよと私が愚痴を言うと、「ああいう老舗でおすすめを聞くのは失礼にあたるよね。すべてのメニューにプライド持ってるだろうから」と大北さんに諭された。年長者の大北さんが言うならそうなのだろう。この世には私の知らないルールがたくさんあるのだとそのときは思った。

現在、私は当時の大北さんと同じくらいの年齢になった。しかし今でもやはりあのときの店員の答えに納得がいっていない。「いや、何でもいいから何か答えればいいじゃん」と思ってしまう。それは私の器が小さいせいなのか。老舗の居酒屋ではなくその辺のチェーン店ばかり行っているから経験が積み重なっていないのかもしれない。

飲み屋における暗黙の了解に精通した、粋な大人になるまでの道は、まだまだ険しそうである。

今回は千住の横丁にて。※写真と本文は関係ありません。
今回は千住の横丁にて。※写真と本文は関係ありません。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2022年2月号より

吉田靖直
ロックアーティスト、文筆家
1987年、香川県生まれ。早稲田大学在学中に結成したトリプルファイヤーのボーカル。著書に『ここに来るまで忘れてた。』(交通新聞社)『持ってこなかった男』(双葉社)がある。https://triplefirefirefire.tumblr.com/