1967年の年末から少年マガジンで連載が開始された『あしたのジョー』は、子供よりむしろ大学生や大人たちが熱中して読んだといわれる。よど号ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」なんて犯行声明を出すなど反響は大きかった。

『ジョーの子守唄』(1970年)

なんか、ココロに残る名言だったけど

テレビアニメ版は1980年にも続編が放送されているから、50歳代以上なら覚えているだろう。エンディング・テーマ『ジョーの子守唄』には強烈な印象を受けた。「立てぇ、立つんだジョーぉぉお!」って、丹下段平の叫びが耳に残って離れない。

丹下段平といえばそう……もうひとつ、忘れられない彼の名言がある。

「今度はわしとおまえとで この泪橋を逆に渡り あしたの栄光をめざして 第一歩を踏み出したいと思う」

って、やつだ。

「泪橋を逆に渡る」ってのは、たぶん……こっちの方角と思うのだが。
「泪橋を逆に渡る」ってのは、たぶん……こっちの方角と思うのだが。

『泪橋』(2004年)

「泪橋を逆に渡る」は、どっちの方角?

泪橋を逆に渡る。なんか、気になる言葉だった。この後も幾多の小説や歌詞に引用して使われたりしているから、気になっていたのは私だけではなさそう。

丹下段平と矢吹丈が明日の栄光を夢見て練習に励んだ丹下拳闘クラブは、泪橋の下に建てられた掘立て小屋。現代ならば違法建築で撤去されるだろう。その場所は「山谷(さんや)」だった。これに異論を唱える人はいない。東京で「泪橋」と呼ばれる場所は、そこにしかないのだから。

左手の方角に200メートルほど行ったところには小塚原刑場跡もある。
左手の方角に200メートルほど行ったところには小塚原刑場跡もある。

江戸市中から小塚原の処刑場へと向かう道の途中、処刑場に近い思川(おもいがわ)を渡ればこの世との別れだ。罪人は泣きながら橋を渡り、その家族・友人たちも橋の袂(たもと)で涙ながらに見送ったという。それが泪橋の由来。余談だが、江戸の南方にある鈴ヶ森刑場の手前に架かる橋にもかつて「涙橋」という名がつけられていた。が、こちらは戦前に橋が架け替えられた時に名称も浜川橋に変更されている。

維新後には思川が埋められ、明治通りが通されて橋は撤去された。泪橋は交差点名としてその名だけが残っている。

『あしたのジョー』の連載が始まった1967年頃はどうだったか? 当時の地図と航空写真で確認すると……いまと変わらない。1950年代まで遡(さかのぼ)ってみても、川や橋は見あたらず。現在との違いは路面電車の線路の有無くらいだろうか。

しかし、地図には記されていないのだが、60年以上前には幅2〜3メートルのドブ川が流れていたという話も聞く。あるいは、漫画に描かれたような風景は実在したのだろうか? まあ、架空のドラマなだけに、そんな細部にこだわってもしょうがない。

肝心なのは、泪橋があった場所。それがここだということだ。その場所に立って、私も泪橋を逆に渡ってみようと思う。

頭のなかで『泪橋』が聴こえきてきた。これを作詞・作曲した竹原ピストルも、高校や大学ではボクシング部に所属していたというから、『あしたのジョー』は読んでたんだろうなぁ。絶対。

しかし“泪橋を逆に渡る”は、どちらの方角に向かって歩けばよいのだろうか。

英語表記されたホテルの看板が見える。「山谷」の雰囲気、昔とはかなり違う。
英語表記されたホテルの看板が見える。「山谷」の雰囲気、昔とはかなり違う。

明治通りに引かれた横断歩道をかつての泪橋に見立てる。足の下には思川が流れていたはず。北に向かって歩けば南千住駅、線路の高架を渡ったところには小塚原の処刑場がある。これが、逆ではない方向だろう。罪人が刑場へと向かう、生きては帰れない絶望のルートだ。そっちに明日はない。

明日をめざして生きるには、逆の南側をめざして歩かねばならない。そちらへ目を向けると、東京スカイツリーが聳(そび)えている。なんか、とっても未来志向な感じもしてくるのだが……『あしたのジョー』の連載が始まった頃はまだ、スカイツリーはない。街の風景も現在とはかなり違う。

泪橋を逆に渡ってまっすぐ進むと、その先にはスカイツリーが聳えている。
泪橋を逆に渡ってまっすぐ進むと、その先にはスカイツリーが聳えている。

泪橋は「山谷」の北からの入口。泪橋を逆に渡ると、かつてのドヤ街を北から南へ縦断するルートになる。当時にまで遡(さかのぼ)れば、明日をめざして歩むといった感じの眺めではなかっただろうなぁ。

『山谷ブルース』(1968年)

その昔にはフォークソングの神様も降臨した

泪橋を逆に渡って進んでみよう。いまの山谷はドヤ街のイメージが薄れている。

ドヤの語源は、宿(やど)を逆に言ったもので、当時は山谷に数千軒もあったという簡易宿泊所を指す言葉。それがいっぱい集まって形成された街だから「ドヤ街」ということになる。

現在はその「ドヤ」の数も激減。また、多くは外国人旅行者相手のゲストハウスにリフォームされて、いまや山谷は世界中の旅人が集まる旅人街になっている。確かに、表通りには横文字のホテル名や英文の注意書きがあちこちに貼られて、通りには外国人バックパッカーの姿もよく目につく。

また、山谷という地名もいま存在しない。1960年代に住居表示制度が制定され、非合理的で分かりづらい住所の変更と整理が進められるようになる。それによって東京の各地でも昔懐かしい地名や町名が消えたのだが、山谷1〜4丁目の地名も1966年には消滅している。

泪橋交差点にほど近い珠姫稲荷神社の石柱には、まだ昔の住居表示が残っている。
泪橋交差点にほど近い珠姫稲荷神社の石柱には、まだ昔の住居表示が残っている。

『あしたのジョー』の連載が始まった時、すでに思川や泪橋が消滅していただけではなく、「山谷」の地名も存在していない。だが、山谷から変更された「日本堤」「清川」などの地名は定着せず、いまは通称でしかない「山谷」と呼ぶほうが分かりやすい。

そうなったのも、歌の影響が大きかったのかもしれない。

1968年9月にリリースされた『山谷ブルース』は、フォークソングの神様と呼ばれる岡林信康の事実上のデビュー・シングル。また、ラジオやテレビで放送禁止になったことで、かえって物議を醸し話題に。誰もが知る名曲になった。「山谷」の名称やイメージが全国的に浸透するようになったのは、この歌のヒットによるところが大きかったと思う。

岡林は山谷の地名が消滅した1966年に同志社大学に入学したが、在学中に色々と煮詰まってしまい、京都を離れて姉が住む東京のアパートに転がり込んだ。そこで山谷で活動するキリスト教牧師と知り合う。

「ああだこうだ言ってないで、お前も働け。そうれば何か分かるだろう」

牧師からそう言われ、ドヤ街に飛び込み1ヶ月ほど暮らしたという。その体験からこの歌が生まれたのは有名な話。60年代末から70年代頃には神様を真似て、夏休み時期になるとドヤ街で居住体験する大学生も増えたとか。

その頃はまだ日本経済が活況で、首都圏近郊のあちこちでさかんに工事がおこなわれていた。朝になれば、路上に列をなしてトラックやライトバンが駐車され、手配師から誘われた労働者たちが次々に乗り込んで、各地の工事現場へ送られてゆく。

条件のいい仕事には人々が先を争って押し寄せ、喧嘩沙汰も日常茶飯事。殺伐としているが活気にもあふれる光景だったという。

すごく久しぶりに目にした「明るい家族計画」の自動販売機。“昭和”の名残もあちこちに見つかる。
すごく久しぶりに目にした「明るい家族計画」の自動販売機。“昭和”の名残もあちこちに見つかる。

明日はこっちの方角で、よいのかな?

そんな活況を呈していた頃の風景を想像しながら、泪橋を逆に渡る方角へ、さらに歩を進めてゆく。すると、日本堤交番が見えてくる。この交番も最近までは旧地域名の「山谷地区交番」を名乗っていたが、いまは住居表示にあわせて改称されている。

これが「マンモス交番」の通称で知られた巨大交番。
これが「マンモス交番」の通称で知られた巨大交番。

60年代には大勢の労働者たちが交番を取り囲んで騒ぎになったことが幾度もあり、新聞やテレビでも報道された場所だ。

警察はここに多くの警察官を配備するようになり、交番もそれに見合った大きなものが建てられた。そこから「マンモス交番」の愛称で呼ばれるようになる。現在の交番も鉄筋4階建、普通の交番と比べるとかなり大きい。2007年まで日本最大の規模を誇る交番だったという。

マンモス交番のところで右に曲がり少し東に行くと、いろは会商店街がある。

2011年に『あしたのジョー』の実写版映画が公開された時、この商店街は「あしたのジョーのふるさと」として町おこしが展開された。アーケードの中いたるところに、矢吹丈や丹下段平などドラマの登場人物を描いた看板や横断幕が飾られ、衣料店ではTシャツなどの関連グッズも売られていた。

いろは会商店街。いまはアーケードが撤去され、シャッターを閉ざした店舗も目立つ。
いろは会商店街。いまはアーケードが撤去され、シャッターを閉ざした店舗も目立つ。

それをネット記事で見た記憶がある。そう言えば『あしたのジョー』の作中にも、昔懐かしい感じの商店街のシーンを幾度か見たような……しかし、いまの商店街を歩いてみても、当時の盛りあがった雰囲気は感じられない。というか、地図を頼りにその場所を歩いているのだが、商店街が見つからない。

「どこなんだろか?」

通りがかりの人に聞いてみると、

「ここですよ」

と、言う。以前にネット記事で見た商店街の写真とは、いまの風景はあまりに違い過ぎる。ここだと言われても、同じ場所に立っているとは思えない。

アーケードは2017年に撤去され、その後は閉店や休業が相次いだようだ。シャッターが閉められた店々がならび、人通りもなく閑散としていた。

写真で見たのとはあまりに違う眺め。呆気にとられながら、一変した風景を眺めつつ、吉野通りと交差する商店街の東のはずれまで歩いた。するとそこに、プラスチック製の矢吹丈の像があった。

商店街の外れにあった矢吹丈の像。今時の小学生が見て、誰なのか分かるんだろか?
商店街の外れにあった矢吹丈の像。今時の小学生が見て、誰なのか分かるんだろか?

街おこし事業の象徴としてここに置かれたものだという。泪橋も山谷の地名もドヤ街の雰囲気も消えたいまは、唯一の『あしたのジョー』の舞台だったという名残だ。

しかし、経年劣化で少し色褪(あ)せ古ぼけた状態なだけに、この最後の名残もそのうち撤去されそうな感じもあり。いまのうちに、じっくり眺めて目に焼きつけておこう。と、近くに寄って見る……と、ここでふと気がついた。像の立ち位置は、泪橋に背を向けて南を向いている。「泪橋を逆に渡る」ってのは、こちらの方角で間違いなさそう。明日はこっちだ。たぶん。

いまとは違って、昔はもっとクセの強い眺めが広がっていたのだろうな。たぶん。
いまとは違って、昔はもっとクセの強い眺めが広がっていたのだろうな。たぶん。

取材・文=青山 誠

青山 誠
ライター
歴史、紀行(とくにアジアの辺境)、人物伝などが得意分野。大阪芸術大学卒業。著書に『首都圏「街」格差』 『古関裕而』 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』『戦術の日本史』『金栗四三と田畑政治』『戦艦大和の収支決算報告』ほか多数。ウェブサイト『BizAiAi!』で「カフェから見るアジア」、雑誌『Shi-Ba』で「日本地犬紀行」を連載中。