人生において唯一、20代前半が本当に嫌〜な期間で、とにかく金がないのが最大の要因だった。本格的にやっていたバンド活動は異常なほど金がかかり、活動資金を最優先するあまり、食事はできず、光熱費は毎月どれかは止められていた。家賃も滞納、彼女の誕生日プレゼントも買えなかったという。 ただ今思うと、当時の私は何もしていなかったのだ。バイトをしていたが、もっと出勤を増やしたり時給の高いところで働くことは余裕でできたはず。つまるところ、極度の“怠け者”のせいで、当時の思い出を歪曲しているだけなのだ。 そんなことを大人になってから気が付いて、罪滅ぼしとでもいうべきか……当時住んでいた西武新宿線の花小金井駅へ足を運ぶようになった。
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バイト代が入った時だけここの弁当屋でから揚げ弁当を買っていたとか、スタジオ練習のために毎回20kg近いバンドの機材を抱えて、駅から3km離れたアパートと往復していたとか……良くも悪くも、この街の記憶だけは一生覚えているだろう。
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小金井街道沿いの『西友』……今でこそ安いスーパーのイメージの『西友』だが、住んでいた頃は一度も訪れなかった。食事はすべて百均と決まっていたのだ。
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そういえば、その『西友』の線路を挟んで向かいに、いつも気になっていた看板があった。
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「とら、い……?」
昔はもっとボロボロだった気がする看板だが、通る度にその独特なフォントが目に入ってきて「一体なんの店だろう?」と思ったものだ。漠然とスナック的な何かだとは思っていたが……。
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その裏側にある店先へ来るのは初めての『虎居(とらい)』。モルタルの壁と下半分は石組み模様になっている珍しい造り。さらに目を引くのは、暖簾(のれん)というよりはカーテンと言うべき長い黄色の暖簾。
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“虎居”と大書された電気看板の迫力……鬼がいるか虎がいるか、20年目の謎を証明するために、いざトライ!
「いらっしゃいませ」
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なんとも上品な口調で、美人の女将さんが迎えてくれる。しかし、なんというシブさだ! クリーム色に色づいた壁と角の丸くなった柱。こぢんまりとした店内には、6人掛けのカウンターと4人掛けテーブルが2つ。奥に長く、堀座卓が並んでいる。
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なるほど、ここはスナックではなく、完全な大衆酒場だったのだ。一番奥に見える窓が、ちょうど西武線の線路から見えた看板のところか。この“家感”、たまらない。それなら早速“晩酌”を始めよう。
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やってきたのはおなじみのホッピーセットである。薄ピンクのアイスペールが、子供のおもちゃから拝借してきたみたいでかわいい。鏡月か黒霧島を選べるナカの水位は氷なしのグラス半分。これは、濃ぃいですよ〜。
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ぐびり……ぐびり……ぐびり……、トラ・トラ・トライ! ワレ飲酒ニ成功セリ! まーたウマい、君っていつどこだってウマいからうれしくなっちゃうっ。さーて、続けて料理はと……おや?
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メニューが、どこにもない。ということは、壁に短冊かホワイトボードが……いや、それもない。これは一体どうしたことか……戸惑っているのを見かねてか、女将さんが優しく声をかけてくれる。
「こちらのカウンターか、テーブルに置いているものから選んでくださいね」
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なるほど、カウンターにはズラリと大皿料理が並んでいるではないか。玉子焼きや煮物がおいしそうだが、特に野菜料理が多い。ただちょっと気になるのが、値段が一切分からないところ。いや、今日は20年目の謎が解明された日だ。気にしないで、食べたいものをいただこう。
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「みなさんよく頼まれます」と女将さんが言うポテトサラダからいただく。写真だと分かりづらいが、かなりの大盛り。同行者もいたのでおそらく2人前なのだと思うが、それにしたって迫力の量だ。
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ムンズッと箸で持ち上げてかぶり付く……うんまいっ! ハム、キュウリ、ニンジンなどの王道の具にして、それを包み込むようにほんのりと温かみが優しい味に仕上げている。
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続いて、大皿料理を見てすぐに決めていたひじき煮だ。濃い味のひじき煮は好みではないが、こちらはそれ以上も以下もない、ちょうどいい塩梅の味付けだ。
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シャワッとしたひじきと、細切りにしたコリコリの昆布が相性抜群だ。“料理上手”が作った小料理、まさにそんな逸品だ。
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出たよ、ほうれん草のおひたしだ! 私はほうれん草が大好きで、家系ラーメンは確実にほうれん草をトッピングする。しかし、これも写真だと分かりづらいが、すごい山盛りだ。
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しゃくしゃくっとした茎の新鮮な歯触りと、わずかにトロミのある葉の甘み。そこにたっぷりの鰹節がたまらない。男性はほうれん草を食べ過ぎると尿路結石になりやすいらしいが、この人体メカニズムをなんとかして欲しい。もっともっと、食べたいのだ。
「予約してた○○だけど」
「はーい、お待ちしてました」
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奥の座敷が、予約客でみるみる埋まっていく。普通に1人で入ってきて飲(や)る先輩もいるが、とにかく年齢層が高い。私なんか、親戚の飲み会に連れてこられた“孫”状態だ。孫ならばと、孫が好きそうな料理を立て続けにいただくことにしよう。
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“孫に食べさせたい料理ナンバーワン”といっても過言ではない、黒豚ハンバーグがやってきた。うっひょ〜こいつもデカい! 少し崩れているのが、いかにも手作り感満載だ。スプーンでズブリと切り分けて、そのまま口へとイン。
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うまぁぁぁぁっ! 口の中でホロホロと崩れながら肉汁をまき散らし、それを中和させるかのようにコクのあるケチャップソースが浸透していく。たまにコリンと玉ねぎの甘みと歯触りが心地よ過ぎて、なかなか飲み込むことができないほどだ。
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まだまだ食い気は止まらずメンチカツを注文。完全に揚げたてのビジュアルからは、想像通りの芳ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
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ZA・KU・ッ!という快音を店内に鳴らし、衣の中からはギッシリのひき肉の旨汁が弾け出てくる。ソースはいらず、衣のカリカリと柔らかいひき肉のマリアージュをいつまでも楽しんでいたい。
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やはり、どうしてもテーブルの上にあった塩から揚げが気になってしかたがなかった。腹はだいぶ埋まったので食べれるかと心配したが、このシルエットを見てふっとんだ。
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これまた一粒が巨大な塊で、口を大きく開けてガブリ──う・ま・い! 決して脂っぽくなく、カリリッと爽快な衣とムッチリとした歯触りの鶏肉。うっすらと生姜の風味が効いて、これがウマくてショウガナイ。世の中のから揚げが全てこれだったとしても、何も、問題はない。
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おほぉ……さすがに腹がいっぱいだ……と腹を撫でていると、春雨サラダの大盛りが目の前にドドンとやってきた。まさかのサービスだというから驚きだ。子供用のミニラーメン1杯分はあるであろう量、食べれるかと心配したが……。
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これも、なんておいしい春雨サラダなのだろう。酢はあっさりと、ほどよくハム、ニンジン、キュウリなどが春雨に絡み、喉ごしも良い。まるでシメのラーメンのようにズズッと、あっという間に平らげてしまった。
どうやら、稀に見るすばらしい酒場を発見してしまった。こんな風に、突然サービスをしてくれた酒場のことはずっと覚えているだろう。
「こちら、お会計です」
これだけの量、これだけおいしい料理なのだから、それ相応の代金がかかるだろうと思っていたが、まさかのひとりたったの3000円だったという。これには思わず「安っ!」と声が出た。
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こんな酒場を20年前に知っていたら……いや、それでも当時の私はこの酒場に“トライ”できなかったかもしれない。それほど、金と心が困窮していたと思うと、情けないやら虚しいやら。
そういえば、店名の由来は旦那さんがやっていたラグビーの“トライ”からだという。タイムマシンで20年前に戻り、私自身に声をかけられるなら、これしかない。
“虎居(トライ)しろよ、この怠け者!”
である。
『虎居』
住所: 東京都小平市花小金井南町1-27-8
TEL: 042-467-6885
営業時間: 15:00〜21:00
定休日: 日・祝
※文章や写真は著者が取材をした当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)
酒場ナビ
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