東京工業大学(東工大)と道路をはさんだ場所にモダンな自社ビルを建てた社長がいる。
東工大OBにして東工大発ベンチャーの 靎見 (つるみ) 敏行社長だ。
鉄筋5階建てのビルを新築するには数億円もかかるはずだが、そんなに儲かっているのか。大岡山ヒルズ族なのか。明け透けな関心が頭をもたげてしまったが、その背景には壮大な構想があった。


■大企業就職は起業のための修行
東京都大田区北千束の大岡山駅は、東急目黒線と大井町線が乗り入れる両路線の接続駅で、改札を抜けると目の前が東工大正門だ。東京23区にありながら、東京ドームおよそ5.2個分のキャンバスと駅近(エキチカ)の恵まれた環境で、周辺は家屋が密集する閑静な住宅エリアだ。

そんな場所に大枚をはたいて自社ビルを建てたのは、ソフトウェア研究開発の株式会社ネフロック代表取締役靎見 (つるみ) 敏行氏だ。

靎見社長は、2008年に東工大大学院数理計算科学を修了後に日本IBMのシステムエンジニアとして就職し、退社後の2011年7月に同社を立ち上げ起業した。2014年からは東工大の非常勤講師をしながら様々なサービスの立ち上げを行っている。

聞けば大学在学時からフリーのエンジニアとして活動を始め、主にパソコンやウェブ上で動くアプリケーションを作っていたが、誰もが使うATMがどうやって動いているのか知らなかったという。起業に関心があった靎見社長だが、箱物のソフト開発への興味からいったん大企業に身を置き、個人では経験できない仕組みを学ぼうと日本IBMへ。そこで3年3カ月、金融機関やメディア業界などでアプリケーションリーダ、インフラリーダを務めた。就職はその後に起業するための修行期間だったと言う。


■シリコンバレー滞在で激変
これまで米国に行ったことがなかった靎見社長は、起業前の向学心からシリコンバレーに1週間ほど滞在した。

おさらいしておくとシリコンバレー(Silicon Valley)は、米国カリフォルニア州北部のサンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置するサンタクララバレーからその周辺地域の名称を指し、多くの半導体メーカーなどが集まる。半導体の主原料は言わずと知れたケイ素(Silicon)。そしてその地形でもある Valley(谷)に由来する。

そして、日本でもなじみ深いApple、インテル、Google、Facebook、Yahoo!、アドビなどソフトウェアやインターネット関連企業が多数生まれIT企業の一大拠点となっている。さらにスタンフォード大学を筆頭に、カーネギーメロン大学(西海岸キャンパス)、サンノゼ州立大学、サンタクララ大学などが研究機関として深く貢献し、先進的な産学官連携の一大拠点となり、スタートアップが次々と産声を上げている。

「カフェに入ると、スタンフォード大の学生がパソコンを開いて議論する姿は当たり前の光景でした。大学と街とベンチャーが、人もお金も回していて、街ぐるみでいい環境を作り上げていると感じました」と靎見社長はシリコンバレーをこう評価する。続けて「日本に置き換えると、渋谷、最近では五反田に、IT企業が集まり会社同士で情報交換したりアライアンスを組んだりつながりがありますが、街や大学が絡んでいるかといえばそうではなく永続性がありません。そこで大岡山駅には東工大があり、街があり、企業を作ればシリコンバレーのようにできるのではないか」と分析する。黒船を逆さ読みしてもじってネフロックにした社名も、外貨を稼げる会社にしたかったからだ。

大岡山駅周辺をシリコンバレーにしたいと、2015年に5階建ての本社ビルを建設。1階をオフィスにし、2階は東工大生が住むシェアルーム、3〜4階は、アパートメント形式の住居で東工大生が住む。靎見社長も5階に住み、オフィスとともにシェアルームの運営も行う。

靎見社長によれば、東工大にはベンチャーを立ち上げる人は少ないという。その理由は、ベンチャー企業の実際の現場を見たことがないからだとの見立てだ。自身も当初、大企業に就職していたが起業やベンチャー経営に向いている人はたくさんいるのにほとんどが大企業へ就職していく現実に憂慮しているようだ。ベンチャーに目が向かないのは、大企業から引く手あまたの東工大生ゆえに、苦労せず就職できるからかもしれない。だから2階のシェアルームでは、自身の会社であるベンチャーを実際に見て知ってもらえたら、そんな場として作った。また東工大は、技術はあるのに日の目を見ないとも。

東工大の隣に自社ビルを建てたのは、後輩たちにベンチャーの姿を見てもらい、起業家を育成し、東工大を中心としたシリコンバレーを作りたい、そんな思いからだ。


■メガネを掛け外ししなくてもAIが似合い度を判定
2019年11月、ディープラーニングを用いた人工知能を駆使し、独自の画像生成・変換・除去エンジンで着用中のメガネをリアルタイムで映像から消し、その上から3Dのメガネをバーチャル試着する「MEGANE on MEGANE (メガネオンメガネ)」をメガネのJINS(JINS渋谷パルコ店)に提供した。

かけているメガネを映像から消し、その上から3Dのメガネをバーチャル試着することで、いちいちメガネを付け外ししなくても、好きなメガネを試着できる。さらにAIが似合い度まで判定してくれる。遠視用メガネが欠かせない筆者も、眼鏡店ではメガネを付けては鏡を見て外す動作を何度も繰り返していたがこれは便利だと感じた。

2020年7月には、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が公募した「AIチップ開発加速のためのイノベーション推進事業」に採択され、リアルタイムで高音質な音声合成が実現可能な音声合成AIチップの開発が佳境を迎えるなど、着々と事業を展開する。

渋谷や五反田は大学が重要な役割を果たしているとは言いがたいが、「大岡山シリコンバレー」は大学がもっと絡んでいける可能性を秘めている。

2021年10月15日
(山口泰博)