戦国絵巻広がる城 「松山城(後編)」 名だたる大名ら覇権争う要衝 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ
産経ニュース6/20(金)11:21

空堀などの遺構が良好に残っている=埼玉県吉見町
市野川に張り出す丘陵に築かれた松山城(埼玉県吉見町)は、名だたる戦国大名が奪い合いを繰り広げた、まさに戦国絵巻のような歴史に彩られた城です。
15世紀後半、比企地方に戦乱が広がると、松山城は河越城を本城とする扇谷上杉氏の重要拠点となりますが、天文15(1546)年の河越合戦で、扇谷上杉氏が小田原北条氏に滅ぼされると、松山城は諸勢力の覇権争いの舞台になりました。
武蔵、上野方面に勢力を広げた小田原北条氏の侵攻によって関東を追われ、越後に逃げた関東管領上杉憲政は、越後守護代の上杉謙信(長尾景虎)を頼り、上杉氏の名跡と関東管領職を譲りました。謙信は、憲政の要請に応じて、北条氏討伐のため、越後から9万を超える兵を率いて関東に出陣。この謙信の軍事行動に乗じて、上杉方の岩付城主太田資正は北条方となっていた松山城を攻め落とし、扇谷上杉氏の再興を期して、扇谷上杉氏の血筋にあたるともされる上杉憲勝を松山城主としました。
しかし、すぐさま松山城奪還に動いた北条氏と武田信玄の5万を超える連合軍が松山城を包囲。天然の要害である松山城はすぐには落ちず、このとき、信玄は甲斐から金堀衆を呼び寄せ、攻め入るための坑道を掘らせたという伝承も残っており、戦闘の激しさを物語ります。
謙信は、松山城からの援軍要請を受け、再度、関東に出陣しました。謙信は、石戸(北本市)まで来るも、水の手を断たれた松山城は持ちこたえられず、謙信の援軍を待たずに降伏開城。これに激怒した謙信は、人質として預かっていた憲勝の子を斬り捨てたとも伝わっています。これ以降、松山城は、北条方の城となり、北条氏家臣上田氏の居城となりました。
もとは扇谷上杉氏の家臣であり、相模守護代の家柄であった上田氏は、14世紀後半から15世紀前半頃に比企地域に進出したと考えられています。北条氏が武蔵に進出してくると、やがて北条氏に属しました。松山城は、腰越城(小川町)などと連携しながら、北条氏の北武蔵における重要拠点である鉢形城(寄居町)を守る重要な役目を担っていたと思われます。
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原攻めの際には、豊臣方の前田利家、上杉景勝らが来襲し、松山城は落城しました。その後、徳川家康が江戸に入ると、家康家臣の松平家廣が松山城に入り、松山藩1万石が立藩しますが、松平氏の移封に伴い、慶長6年(1601年)に廃城となりました。
軍用犬のはじまりの地とも
松山城は西から東に向かって本曲輪、二の曲輪、三の曲輪、曲輪四が一直線に並び、そのまわりに笹曲輪、太鼓曲輪、兵糧倉跡、惣曲輪などが配置されています。大小含めて相当な数の曲輪が配置されていて、かなりの規模であることがわかります。遺構は良好に残っていて、横矢掛かりを伴うダイナミックな空堀には圧倒されます。
本曲輪と惣曲輪で行われた発掘調査では、造成が複数回行われたことが確認されています。造成土には火災の痕跡である大量の焼土が含まれていたことから、文献などで伝わるように松山城で戦闘行為があったことが推察できます。さらに、調査では短刀、鉄砲玉なども出土しており、これらも戦闘を裏付ける遺物といえます。
軍記物の記述や伝承が豊富に残り、扇谷上杉氏、岩付太田氏、小田原北条氏、武田信玄、上杉謙信らが戦いを繰り広げた松山城は、本県のみならず、東国の歴史の面白さを存分に味わい、体感できる貴重な史跡です。
◇
永禄6(1563)年、北条氏と武田氏の連合軍に松山城を包囲された城主上杉憲勝は、岩付城の太田資正に援軍を要請しました。この絶体絶命の危機を資正に伝えるべく走ったのは、なんと「犬」でした。松山城には万が一に備えて、資正の飼い慣らした犬が置かれていたといい、この有事の際に、犬10匹が岩付城に走ったと伝わっており、これが軍用犬のはじまりだともいわれています。
◇
■山城ガールむつみ
歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。
歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)











