「納豆不毛の地」大阪で粘り強く60年 本場・東京で挑戦 小金屋食品 吉田恵美子社長 一聞百見

産経ニュース6/13(金)14:00

「納豆不毛の地」大阪で粘り強く60年 本場・東京で挑戦 小金屋食品 吉田恵美子社長 一聞百見

「納豆不毛の地」といわれてきた大阪で約60年にわたり納豆をつくり続けてきたメーカーがある。大阪府大東市の「小金屋(こがねや)食品」。創業者だった父の死後、後を継いだ社長の吉田恵美子さん(61)は、従来の卸売りを続けるとともに、関西では珍しい専門の直営直売店を大阪市にオープン。納豆文化の本場・東京に2号店を開店し、あえて「大阪納豆」というのぼりを掲げて人気を集めている。

大阪市の直営店は「納豆BAR小金庵(こがねあん)大阪土佐堀店」(同市西区)。カクテルのように、トッピングと納豆の種類を変えて組み合わせを楽しめ、女性客らの心をつかんでいる。

大粒、小粒、ひきわりの3種類の納豆と、とろろ昆布、イワシ削り節、本わさび、青唐辛子みそ、キムチなど12種類のトッピングをそれぞれ選んで購入する。トッピングは当初、6種類だったが、2倍に増やした。価格は納豆とトッピングで1個300円前後。

「トッピングをいっぱい楽しめ、日替わりでいろんな納豆を食べられるようにしようと思った。女性は選ぶことが大好きでうけた」と手応えを語る。

材料の大豆はすべて国産。商品をかき混ぜると、ねばねばの白い糸がどんどん出てくる。「納豆は糸がうまみになる。100回くらい混ぜたほうがいい」とアドバイスする。

小金屋食品の創業者だった亡父の小出金司(こいできんじ)は山形県米沢市出身。地元の中学校を卒業し昭和27年、同郷人が経営していた大阪府内の納豆工場で住み込みで働き始めた。当時、東北出身者は東京で働くことが多かった。「父は商売がしたいと思い、商売は大阪というイメージを持っていた」と理由を説明する。

父は結婚を機に独立。37年に現在の大阪府門真市で漬物やみそ、手づくり納豆を売る店を始め、42年ごろに同市で納豆工場を設立した。今も続く府内の納豆メーカーとしては草分けだ。納豆は漬物店に卸売りしたが、なじみが薄かった大阪ではなかなか売れなかった。「『納豆なんて食えたもんじゃない』『腐ったものや』『食べる人がいない』といわれたそうです」

それでも高度成長が続く中、府内でも納豆が認知され、徐々に売れるようになっていった。

そんな中、47年ごろに工場が火事で全焼するという悲劇に見舞われたが、49年に大東市に工場を再建し、小金屋食品として法人化。夜が明ける前から納豆づくりに精を出し、日曜も休まず懸命に働いた。子供は長女の吉田さんを含め娘3人。工場の2階に住み、働く両親の姿を見て育った。「父に配達の車に乗せてもらい、ショッピングセンターで遊んだ」と思い返す。

社長として働き続けた父は肝臓がんを患い、平成15年に67歳で死去。吉田さんは商業高校卒業後、文具メーカー勤務を経て主婦に。「継ぐ気はなくノータッチだった」というが、死去の直前、経理を担当する専務として小金屋食品に入社した。社長には、夫が製薬会社を辞めて就任した。

こうした中、経理担当として会社の決算書を見て衝撃を受けた。「累積赤字がすごく、銀行からの借り入れが年商の倍近くあった。このままではつぶれると思った」

父の時代からつもりつもっていた。19年に自らの意志で「思ってもみなかった」という社長に就き、離婚した。

ブランド確立へ次々挑戦

平成19年、亡父が始めた大阪府内の納豆メーカーの草分け「小金屋(こがねや)食品」(大東市)の社長になった。社長のほかには、パート従業員5人のみ。「継ぐ気はなかった」というが、悪化した経営状況を見かねて志願し、専務から就任した。ただ「そこからが大苦難のスタートだった」と振り返る。

「商業高校出身で決算書は読めたけど、営業力も人脈もない。会社は火の車だが、何をしていいか全くわからなかった」

まず売り上げを伸ばして経費を徹底的にカットしようとしたが、それだけでは十分ではなかった。「利益を残せる体質にしないといけないことに気づいた」と語る。

そのためには、ほかとは違うブランド力をつけなければならないという結論に達した。まず父が独立後に漬物やみそとともに扱っていた手づくりのわら納豆を再現した商品を21年に発売した。大阪の「なにわ」と「わら」をかけて「なにわら納豆」と命名。テレビや新聞に取り上げられるなど注目を集めた。この商品が「会社が変わるターニングポイントになった」といい、現在でも主力商品の位置を占めている。

さらに「つくり方は同じだけど、見せ方を変える」として、これまであった商品を、名前やパッケージを変えるなどして一新した。危機的だった経営は次第に持ち直していった。

小金屋食品は父の時代から納豆をスーパーや百貨店などに100%卸売りしていたが、これでは消費者の顔が見えない。「消費者と直接触れ合える場がほしい」と会社の工場に直売所を設けたところ、何度も買う人がおり、「おいしかった」など生の声に接することができた。

「卸売りはひたすら納品する作業ですが、これで従業員のモチベーションが上がった。もっと喜んでもらえる商品をつくろうという意識になる」と効果を実感した。

直売に力を入れようと、百貨店の催事やイベントに出店してみた。だが、来場者に声をかけても寄ってくれず、売り上げが思うように伸びなかった。繁盛していた別の店を見たところ、さまざまな商品が並ぶ中、人々が立ち止まっており、考えた。

「お客さんは悩むときに立ち止まる」−。そんな気づきから、トッピングと納豆の種類を変えて組み合わせを楽しめる「納豆BAR小金庵(こがねあん)」のブランドを立ち上げ、約3年間、百貨店の催事で試験的に販売してみた。小金屋食品では販売していない方式の商品で、新たな挑戦だった。

「これが通用するかどうかと思いましたが、選ぶこと(の楽しさ)で足を止めてくれる。その効果でまた人が来てくれました」

売り上げが伸び、お客さんから「(催事ではなく)ふだん買える店はないか」という声も上がった。直営直売店第1号を出すことを決めた。

大阪市西区の土佐堀通沿いに28年にオープンし、ブランド名を店名にした。同じブランドのオンラインショップも始め、収益が順調に伸びていった。こうした中、令和5年2月には、東京都台東区で2号店の開店にこぎつけた。

納豆BAR小金庵と小金屋食品は別々のブランドとして運営。それぞれのホームページを設け、扱う商品も分けた。

仕事は人生 社長業に邁進

令和5年2月にオープンさせた「納豆BAR小金庵(こがねあん)」の2号店となる東京蔵前店(東京都台東区)。大阪から、納豆文化の本場・東京にあえて出店した。

「マーケット(市場)の中心は東京なので、まず大阪で根付いて次は東京で、と思っていた。東京への出店は『逆輸入的』な雰囲気なんですけど、それがインパクトがあるのかなと思う」

店の前には「大阪納豆」と大きく書かれたのぼりが掲げられ、「納豆不毛の地、大阪で選ばれ続けた味」という文字が躍る。インパクトは十分で、店を訪れた人からは「大阪でも納豆をつくっているの」と驚きの声が漏れるという。

販売する商品は1号店の大阪土佐堀店(大阪市西区)と同じく、12種類のトッピングと、大粒、小粒、ひきわりの3種類の納豆の組み合わせを選ぶ仕組み。ユニークな販売スタイルは在京テレビでも紹介され、注目を集めた。

東京蔵前店は訪日外国人客(インバウンド)でにぎわう浅草のそばに位置し、日本独特の食文化である納豆を買い求める訪日客も多い。

「インバウンドのお客さんはアジアと欧米が半々くらい。そんなに多くは買わないですが、中国や香港、韓国の富裕層は大量に買う。100個くらい買う人もいる」と打ち明ける。

東京蔵前店の売り上げは平成28年にオープンした大阪土佐堀店を上回っている。「東京はもともと納豆を食べる人が多く、人口も大きい。また浅草に近いからインバウンドも多い」と成功の理由を語る。

「納豆BAR小金庵」は小売りとオンライン販売、本体の「小金屋(こがねや)食品」(大阪府大東市)は卸売りで、別々のブランドとして運営しているが、2店舗となった後発の「BAR」の売り上げが上昇。いまや売り上げ全体の35%ほどを占めるようになった。

「直営店を増やし、『BAR』の売り上げを50%にまで持っていきたい。福岡や名古屋など主要都市を視野に入れている」と目標を語る。そして「直営店は利益率が高いし、お客さんと触れ合うことが楽しい。従業員がやりがいを持ってくれるので力を入れたい」と強調する。

平成15年に亡くなった父の小出金司(こいできんじ)が創業して約60年、法人化してから約50年。主婦から専務となり、経営危機の中、自らの意志で社長に就いてからは18年になる。就任当時は、高校生と小学生の子供3人がおり、食事の準備など家事をしながら懸命に社長業に励んだ。

社長は会社の全責任を負わなければならない。大きな額の運転資金の借り入れのため、ハンコを押したときは体が震えたこともあった。「専務とは違う。責任の大きさは雲泥の差がある」と感じた。

社長就任時、社長1人とパート5人だった会社は、社長を含めて役員3人、社員3人、パート9人となった。この間、売り上げは約3倍に増えた。自身は、大東市の小金屋食品で働くほか、「BAR」の大阪土佐堀店、東京蔵前店で接客にも取り組む。

好きな言葉は「継続は力なり」。「父は納豆づくりをやり抜いた。これからもそれを貫きたい。仕事は人生そのもの。少なくともあと10年は社長をやっていきたい」と力を込めた。(張英壽)

よしだ・えみこ 昭和39年大阪府門真市生まれ。大阪市立天王寺商業高校を卒業し、大阪市の文具メーカーに勤めた後、主婦に。平成15年に小金屋食品専務、19年に社長に就任した。保育園児から小学4年生までの孫4人と遊ぶときがほっとするという。

関連記事

おすすめ情報

産経ニュースの他の記事も見る

主要なニュース

6/23(月) 9:10更新

生活術の主要なニュースをもっと見る