日が傾き、夜風に舞って散っていく桜の花びらが、あのときの雪のようにみえた。東京都内の斎場で営まれた葬儀が、始まろうとしていた。大相撲で史上初の外国出身横綱に昇進した曙の推挙式と初めての奉納土俵入りが東京・明治神宮で行われた平成5年1月28日も、桜吹雪に似た小雪が舞っていた。

米ハワイ州出身で、格闘家としても活動した元横綱曙の曙太郎(あけぼの・たろう、旧名チャド・ローウェン)さんが4月上旬に心不全のため東京都内の病院で死去した。54歳だった。闘病生活は7年にも及んだ。

14日には日本の通夜にあたる葬儀が執り行われ、同じハワイ出身で入門時の師匠だった元関脇高見山の渡辺大五郎さん(79)らも参列。「残念。まだ若い。もっと頑張ってほしかった」と目を潤ませた。

10人を超す関取を輩出した「花のロクサン組」といわれる昭和63年春場所で初土俵。同期入門で兄弟で横綱になった3代目若乃花や貴乃花とライバル関係を築いた大相撲ブームは、社会現象にもなって土俵史に深く刻まれた。

そんな横綱の立ち居振る舞いに、教えられたことがある。内輪の宴だった。曙がやおら居住まいを正し、両手を膝に置いて恭しく正座をした。現役横綱の正座姿に驚いたことをよく覚えている。

教えを乞うためだった。その相手は、当時の立行司で第28代木村庄之助。22年4月に亡くなった本名・後藤悟さん。行司抜てき制度が適用されて先輩行司を追い抜いて出世。裁きは巧みで正確。相撲史にも深く通じていた。庄之助時代の唯一の新横綱だった曙に対し、日本の文化や慣習などを惜しまず助言した。曙もまた「後藤の親方」と慕い、師匠も外国出身だったことから、わからない慣例などがあると相談を持ち掛けていた。

2メートルを超す曙が正座をしても、小柄な後藤さんを見下ろすかたちとなり、食い入るように耳を傾けるものだから、後藤さんは「覆いかぶさられるようで怖い」と笑っていた。

正鵠(せいこく)を射る指摘も、多かった。曙が披露していた雲竜型の「横綱土俵入り」の所作について疑問を口にしたことがあった。土俵上の姿を思い返してほしい。土俵に上がった横綱は二字口(徳俵)で両手を大きく広げて拍手を2度打って塵(ちり)を切る。中央へ3歩進み、再び大きく両手を広げて2度、拍手を打つ。そして左手は左胸に当て、右腕を大きく真横へ差し出す。このとき、右掌を真下へ向けて返す横綱がとても多い。

後藤さんは、この右掌を返す所作を不必要と捉えていた。この動作は大相撲の力士の取組前の礼法の基本「塵手水(ちりちょうず)」にある。土俵へ上がった力士は蹲踞(そんきょ)の姿勢で上体を前傾させ、両腕を開いて膝の内側から下ろす。もみ手をしてから拍手を打ち、両腕を広げた後、掌を返すのだ。

塵手水は相撲が野外で行われていた名残とされ、水がないために雑草や木の葉で手を清めたことに由来。「塵」は草や葉を、「手水」は手洗いを意味する。取組前に互いに手に何も隠し持っていない「寸鉄を帯びず」を確認しあったことが、その起源とされている。

後藤さんは塵手水の掌を返す所作が、横綱土俵入りにも誤って混同されて、横綱が腕を伸ばして掌を返すしぐさにつながったといった。それでも、曙に「直せ」とは強要しなかった。

結果は同じでも、知ることの大切さを学ばせてもらった。掌を返すことを疑問に思い、正座をして問いただした曙の姿を忘れない。(奥村展也)