昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫ります。今回は大阪府にある大阪城をピックアップ。大阪城は、豊臣大坂城と徳川大坂城があって、現在の大阪城は、その二つが混じりあった意匠・・・って一体どういうこと!?

徐々に本来の姿を失っていった大坂城
大阪城の「さか」。現在は「阪」だが、歴史書や江戸時代以前を扱う場合は「坂」の字を当てることが多い。江戸時代には「大坂」と書くことが多かったが、「大阪」と書くこともあった。明治政府が大阪府を設置してからも「坂」と「阪」は併用されていたが、明治20年(1887)頃までには「大阪」に統一されたという。ちなみに戦国時代には「おおざか」と「さか」を濁音で発音していたようだ。本稿では江戸以前は「大坂」、明治以降は「大阪」として話を進める。

さて、大坂城は豊臣秀吉が築いた「太閤さんのお城」として有名である。だが、現在の大阪城(堀と石垣)は江戸幕府が築いたものなのである。それだけでも「えー!」となるのに、さらに、昭和6年(1931)に完成した現在の天守は、徳川時代と豊臣時代が混じりあった意匠なのだ。

なぜそんなことになってしまったのか? これからその謎に迫っていきたいと思う。

豊臣秀吉が築いた最初の天守は、漆黒の5層天守で、鯱瓦や飾り瓦、壁面に刻まれた金色の彫刻、金銀で飾りたてられた奥御殿など、天下人秀吉にふさわしい絢爛豪華な城だった。その姿は「大坂夏の陣図屏風」に描かれたものを偲ぶのみとなっているが、築城には約1年半を要し、秀吉が死ぬまでの15年間、拡張が続けられた巨大城郭だった。

その大坂城も、大坂夏の陣で豊臣家が徳川家康に敗北すると、徹底的に破壊されてしまう。その後、2代将軍徳川秀忠により再建工事が行われ、豊臣時代の大坂城はすべて埋められ、堀はより深く、石垣はより高く築き直された。再建工事は3期10年にわたって行われ、3代将軍家光の時に完成した。天守は白亜の5層6階で、豊臣時代より約18メートルも高かったと推測されている。

しかし、築城から39年後、天守は落雷によって焼失してしまい、昭和に天守が復興されるまでの266年間、大坂城に天守が再建されることはなかった。徳川時代には大坂城に天守はほとんどなかったといえる。さらに、幕末には鳥羽・伏見の戦いで櫓などの建物もその多くを焼失してしまう。

やがて武士の世が終わり、明治新政府が成立すると大阪城には陸軍が駐留。幕末の火災で焼け残った建物も次第に失われていくこととなる。

当時最新の建築方法だった鉄筋コンクリートで天守が蘇る
大正14年(1925)、大阪市は東京市を抜いて日本最大の人口を抱える都市となった。関東大震災により一時的に首都機能を失った東京から、多くの企業や活動の場を失った芸能人や文化人が大阪に逃れてきたこと、都市化した郊外を大阪市に編入したことがあいまって大阪市の人口が急増したためだ。

これを記念して開催されたのが「大大阪記念博物館」である。このとき、天守台の上に「豊公館」という仮設の建物が建てられた。そこでは秀吉ゆかりの品々が展示公開され、45日間で約70万人が訪れるほどの大盛況となった。これがきっかけとなり、昭和3年(1930)、仮設ではなく恒久的な天守をつくることが議会で承認された。

しかし、議会の承認は得たものの、城の再建には土地の所有者である軍を説得し、城内に点在する陸軍施設を移動させなければならない。そのため、大阪城再建のための寄付で集まった150万円(現在の5〜600億円)の内、80万円を投じて第4師団司令部庁舎を新築することを軍に提案し了承を取り付けた。このとき新築された庁舎は、戦後、大阪市立博物館として長らく使われており、現在は城内にいながら食事や買い物を楽しめる複合施設「ミライザ大阪城」となっている。