「西南戦争と城」【鹿児島城】西郷隆盛、死を覚悟した最後の決戦

「西南戦争と城」【鹿児島城】西郷隆盛、死を覚悟した最後の決戦

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は「西南戦争編」として、明治維新から10年後、政争に敗れて下野していた西郷隆盛が担ぎ出された士族最大の反乱・西南戦争にまつわるお城を紹介します。

民主主義国家を目ざす明治新政府はすべての国民を平等にするため、江戸時代から続いた武士を特権階級とする身分制度を廃止しました。このため武士たちは給料が大幅に減り、武士の魂である刀すら身につけることを禁じられます。これに不満をつのらせた武士たちは、新政府と意見を違えて故郷の鹿児島に帰っていた西郷隆盛を旗頭に西南戦争を起こしました。

しかし、西郷軍は緒戦の熊本城の戦いに敗れ、その後の戦いでも連敗。ついに鹿児島へと戻り、決死の最終戦に臨みます。

鶴が翼を広げた姿にたとえられた島津家の居城
江戸時代を通じて薩摩藩(さつまはん)(鹿児島県)の藩主を務めた島津家は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に九州の統治を任されて以降、ずっと同じ地で続いている名家です。戦国時代には薩摩を中心に九州のほとんどを手に入れました。

しかし天下統一を目指す豊臣秀吉の九州攻めに敗れ、薩摩とその周辺のみの統治を認められます。関ヶ原の戦いでは勝者の徳川家康に敵対したため家が取り潰される可能性もありましたが、懸命に恭順の意志を示すことで薩摩の大名として存続を許されました。

こうして家康が初代将軍となった江戸幕府の時代、18代当主・島津家久(しまづいえひさ)によって築かれた新たな島津家の居城が鹿児島城(鹿児島県)です。築城にあたって家久は、関ヶ原の経緯もあることから家康や幕府に目をつけられないよう細心の注意を払い、天守も重層構造の櫓もつくりませんでした。

その代わりに中世的な平屋の館造りを採用し、優雅な御殿建築に仕上げます。その姿は規則正しく区分けされた城下町と相まって鶴が翼を広げたように見えることから、鶴丸城とも呼ばれました。

合戦がほぼなくなってからつくられた鹿児島城は、行き来がしやすい平地に建つ平城です。そのうえ平屋の建物しかないので守りが弱そうですが、実は周辺に「外城(とじょう)」と呼ばれる防衛線の城が複数あり、簡単には攻められませんでした。しかも城の北側には城山という山があり、そこに後詰の城も持っていたのです。

城山にはもともと薩摩の豪族・上山家の上山城(うえやまじょう)がありましたが、上山家が島津家に追い出されてからは無人で放置されたといわれます。それが鹿児島城の完成にともなって整備されました。この城山こそが、幕末最後にして現在の日本で最後の内戦である西南戦争の決戦地となったのです。


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