お城に関する素朴な疑問を記事にする城びとの人気連載「超入門!お城セミナー」.。かつて全国に林立していた城郭の天守は昭和時代の後半までに12基まで減ってしまいました。12基の天守はどのような経緯で現代まで存続できたのか? 天守たちの波乱の歴史を紐解きます。

天守を激減させた幕府の政策「一国一城令」
「現存天守」とは、江戸時代までに建てられ、修復されながら現在まで残っている天守のことです。日本全国に、現在12基しかありません。安土城(滋賀県)以降、江戸時代までに数百基の天守が建てられたといいますが、現在はなぜたったの12基しか残っていないのでしょうか?

天守は、まず織田家中で広まり、豊臣政権時代に全国津々浦々に普及しました。そして、大規模な大名の配置換えのあった関ヶ原の戦い後は、諸大名が新天地にこぞって城を築きました(これが「慶長の築城ラッシュ」です)。すべてに天守があったわけではありませんが、この時に天守もたくさん誕生したはず。

しかし江戸時代に入ると、徳川幕府の「一国一城令」と「武家諸法度」により一部の例外を除いて、大名の居城となる1城以外の城の破却と城の新築工事の禁止が定められます。この時、全国に3000ほどあった城が170ほどに激減したといいますから、実に約95%を失ったことになります。