薪の値段が暴落するほど全国の城が一斉に取り壊される中、城を守ろう!と動いた人たちもいました。陸軍大佐の中村重遠(なかむらしげとお)は、日本の城が建築的・美術的に価値あるものだと考えた一人。

陸軍トップの山県有朋(やまがたありとも)に建白書を提出し、これが認められて永久保存決定・修理されたのが、姫路城と名古屋城(愛知県)です。彦根城(滋賀県)も、立ち寄った明治天皇に大隈重信が保存を奏上したことにより、勅命で保存が決定しました。

また、松本城(長野県)は、『信飛新聞』発刊者の民権運動家・市川量造(いちかわりょうぞう)が、有志から資金を集めて落札主から天守を借り受け、さらに県の協力も取り付けて天守で博覧会を開催。その収益で天守を買い戻し、取り壊しを回避したのです。

こうして、昭和に入るまで20基の天守が残りました。しかし第二次世界大戦の爆撃や戦後の失火で、広島城(広島県)をはじめ、水戸城(茨城県)、名古屋城、大垣城(岐阜県)、和歌山城(和歌山県)、岡山城(岡山県)、福山城(広島県)、松前城(北海道)の計8基を失ってしまいました。残ったのは、ついに12基に。これが現存12天守なのです。

上にあげた例のほかにも、町民が奔走して買い戻した後、町に寄附され公会堂として親しまれた丸岡城(福井県)、昭和まで放置された城を修復するため、学生や子どもたちも協力して地元の人たちが山上まで瓦を運んだという備中松山城(岡山県)、明治24年(1891年)の地震で半壊した天守を修復することを条件に旧藩主に譲渡され、2004年まで個人所有だった犬山城(愛知県)、旧藩士の嘆願によって取り壊しを免れた丸亀城(香川県)など、、

すべてを紹介しきれませんが、長く困難な道のりを経て、そこに立ち続けている現存12天守には、それぞれに違ったドラマがあります。現地を訪れた時は、ぜひそのドラマにも注目してみて下さい。きっと、その天守がより愛おしく感じられるはずです。

お城情報WEBメディア「城びと」
2019年2月初出の記事を再編・再掲載