角牟礼城(つのむれじょう)は、戦国時代には九州の名門・大友家が治め、島津軍の侵攻に耐えた名城。湯布院温泉と天領日田に挟まれた静かな場所に位置します。

現在、城跡には往時の姿を感じさせる高石垣が残っています。また、この角牟礼城の麓に陣屋を構えたのは、江戸時代には、瀬戸内海で村上水軍として名をはせた久留島(くるしま)氏でした。角牟礼城とともに「日本一小さい」といわれる森城下町の知られざる魅力に触れてみましょう。

最先端の築城技術が生かされた角牟礼城
標高577m、比高約240m、角埋(つのむれ)山の切り立った岩山などの形状を生かした山城は、天然の要害として古くから使われていました。豊後(大分県)北部に位置し、豊前(福岡県)からの攻撃に備えるための重要な城でした。

豊後の大名・大友氏と薩摩(鹿児島県)から攻め上がる島津氏とで、天正14〜15年(1585〜1586)にかけて繰り広げられた豊薩(ほうさつ)戦争で落城しなかった堅固な城として知られます。

豊臣秀吉の九州平定後、文禄2年(1593)に大友義統(おおともよしむね)が改易され、豊臣秀吉の家臣である、尾張国(愛知県)出身の毛利高政(もうりたかまさ)が角牟礼城主に。毛利高政は、その後角牟礼城を織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)へと改修しました。

改修の際、豊臣秀吉の大坂城築城に関わっていた経験を生かし、当時最先端の築城技術を角牟礼城に生かした毛利高政。ちなみに織豊系城郭とは、織田信長や豊臣秀吉の時代に流行し、瓦屋根や石垣、天守に特徴があります。二の丸周辺には、当時屈指の石工集団・穴太(あのう)衆による穴太積みが残っています。

穴太積みは、野面積み(のづらづみ)の代表的な積み方といわれています。粗野な積み方に見えますが、実は強度や安定性が高い組み方です。この穴太積みは、角牟礼城跡の見どころでもあります。

毛利高政が角牟礼城にいたのは約7年。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、佐伯藩(大分県佐伯市)へ転封となってしまいます。ちなみに、毛利高政が改修を手がけた角牟礼城も佐伯城(大分県佐伯市)も、ともに続日本100名城に選定されています。