瀬戸内海の水軍・来島氏が角牟礼城を廃城にする
関ヶ原の戦いの後、角牟礼城のある玖珠(くす)領主となったのは久留島(くるしま)氏。瀬戸内海で活動していた「村上水軍」が三家に分かれたひとつ、来島(くるしま)水軍として戦国時代に名を轟かせました。

関ヶ原の戦いで久留島氏は、敗れた西軍に味方したにも関わらず取り潰されずに特別に許されたという背景があり、玖珠の領主になると角牟礼城を廃城にし、徳川家に恭順の意を示しました。

久留島氏の石高は1万石余りであったため、お城を構えることはできず、角牟礼城の麓(現在の三島公園)に陣屋(無城大名の居所)を築きました。角牟礼城は江戸時代の絵図に「古城」と書かれているように、以降は放置されていたと考えられています。

使っていないはずの角牟礼城は江戸時代に修復されていた?
廃城となり、放置されていたはずの角牟礼城ですが、不思議な発掘結果が報告されました。平成5年度から行われた発掘調査によると、城内の出土遺物として、16世紀後半(一部17世紀初頭)の輸入陶磁器・国産陶磁器が出土しており、毛利氏が居城した時期と異なります。

また、使われていないはずの角牟礼城の石垣が久留島氏時代のものと考えられる箇所もあり、櫓や城門などの建物は撤去したものの、石垣の修理は続けていたことになります。有事に備えて角牟礼城跡周辺は管理され、通常は一般の入場は禁止されていました。