全国の大名が西軍と東軍に別れて争った「関ヶ原の戦い」。この戦いに勝利した徳川家康が後に江戸幕府を開いたことは有名だが、実は戦いが全国に波及していたことや多数の攻城戦が行われていたことはあまり知られていない。

決戦が起きた最大の要因とは?
天下分け目の合戦として、あまりに有名な「関ヶ原の戦い」。時に慶長5年(1600)の9月15日、日本全国から集まった20万人近い軍勢が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で雌雄を決した戦いである。

徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成(いしだみつなり)を旗頭とする反徳川勢力の「西軍」とが激突した決戦は、わずか半日で決着。

「東軍」が勝利した。この合戦を制した家康が覇権を握り、約270年に及ぶ江戸時代への幕を開く契機となった。それまで100年近く続いた戦乱の時代から泰平の世へ変わる日本史の行方を、大きく決定づける合戦であったのだ。

決戦当日は、東軍の圧勝で呆気なく終わったともいわれる「関ヶ原の戦い」だが、そこに至るまでは、日本全国を舞台とした長い抗争のドラマがあった。

そもそも、なぜ合戦は起こったのか。それは合戦の2年前にあたる慶長3年(1598)の秋、天下人の豊臣秀吉が、京都の伏見城(京都府)で死去したためである。

当然、その跡を継ぐのは彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)と決まっていた。だが秀頼はまだ6歳の幼子で、政治などできない。そこで秀頼の配下(豊臣政権)に属する家臣団が秀頼をサポートしながら、国政を動かしていくことになった。