お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは倭城。国外に日本式の城郭が築かれた理由、そしてこれらの城が国内の城に与えた影響とは? 文禄・慶長の役と城の関わりを紹介します。

文禄・慶長の役で日本軍の拠点として築かれる
全国に数万もあったとされる日本の城は、軍事と政治の拠点という役割を持っていました。自分の領地を守る・治めるための施設です。飛鳥時代には、大陸からの敵に備えた古代山城が築かれたことがありましたが、海に囲まれた日本では、想定された敵はほとんどが日本国内の敵対勢力でした。

しかし、外敵に対抗するために日本人が造った日本の城が、なんと日本国外にあったのです。その名も「倭城」。「倭」は外国から見た日本の古称ですから、まさに外国人目線の命名。その外国人とは、安土桃山時代の明(現中国)と朝鮮(現韓国)の人たち。そう、倭城があるのは朝鮮半島の南岸地域なのです。

なぜ、国外に日本式の城が築かれたのか。その理由にはとある歴史的事件が関わっていました。その事件とは、天下人・豊臣秀吉が行った国外遠征、文禄・慶長の役です。

天正18年(1590)に北条氏を滅ぼし、天下を統一した豊臣秀吉は、明(当時の中国)の征服を目指して諸大名を動員し朝鮮半島に攻め入ります。この遠征は2度行われ、天正20年(1592)〜文禄2年(1593)を文禄の役、慶長2年(1597)〜慶長3年(1598)の遠征を慶長の役と呼びます。休戦・交渉をはさんでこの2度の戦があり、日本軍は明の従属国であった朝鮮の地に攻め込んで戦いますが、秀吉の死により日本軍が撤退して終結しました。