お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは江戸時代に登場した軍学者が造った城について。かつて武士たちが命がけで編み出した戦術は、戦を知らない学者によって「軍学」として体系化・理論化され、城も軍学に基づいて造られるようになります。そういった城は本当に合戦の役に立つのか、軍学者が造った城の実力を検証してみましょう。

武士の必須教養だった「軍学」とは何か?
大坂の陣の終結をもって、戦のない泰平の世となった江戸時代。戦を知らない武士がどんどん増え、本来は軍事拠点である城も、政庁や住居の色合いが濃くなります。そのため戦略を進言したり、城の縄張を担当していた軍師の活躍の場もなくなってしまいましたが、これにかわって江戸時代に活躍したのが、軍学者です。

軍学とは、戦術や用兵など、戦国時代の戦の方法を理論的に体系化した学問。軍学者は、大名をはじめとする武士を門下に集め、これを講義しました。軍学を修めることは、江戸時代の武士の教養だったのです。

江戸軍学には、五大流派とされた甲州流・越後流・北条流・山鹿流・長沼流をはじめ、100を超える流派があったといいます。その中でも将軍家の御家流として栄えたのが「甲州流軍学」。『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に書かれた武田信玄の戦法を研究したもので、武田家旧臣の小幡景憲(おばたかげのり)を祖としています。

甲州流からは、まじないなどの呪術的な要素を取り除いて合理的な軍学に体系化した北条氏長(ほうじょううじなが/小田原北条氏の一族)の「北条流」、氏長の門下である山鹿素行(やまがそこう)が戦法だけでなく、武士としての心得である士道も説いた「山鹿流」など多くの流派が生まれました。特に山鹿流は全国各地に広まり、日本の軍学に明代の中国兵法などを取り入れた長沼澹斎(ながぬまたんさい)の「長沼流」とともに新兵法学の双璧と称されていました。

甲州流軍学では、城は陰陽道にもとづく「四神相応」の地(北に山、東に清流、南に湖沼や海、西に大路を持つ土地。風水や陰陽道で縁起の良い土地とされる)に築くべきであると説き、曲輪の配置は三重の輪郭式を標準としています。四角い曲輪を守りに適した、曲輪を攻めに適した「陽」とし、両方の利点をあわせ持つ「陰陽和合(いんようわごう)」の縄張を理想としています。