お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは廃城令。かつて全国には3000にも及ぶ城が築かれ、数百基の天守が建っていました。しかし、現在まで残った天守はわずかに12基。なぜ、無数に築かれた城は激減してしまったのか。その大きな原因となった「廃城令」について解説します。

破却か保存か…、城の命運を分けた「廃城令」
関ヶ原の戦い後、天下人となった徳川家康によって江戸幕府が開かれ、日本は戦国乱世から合戦のない平和な世へ向かっていくわけですが、先の天下人の一族である豊臣家を壊滅させるための決戦が、近い将来必ずあると見ていた大名たち。これに備えて地方に国替えになった豊臣恩顧の大名を中心に全国で多くの城が築かれ、そしてこれらの大名を抑えるため、幕府主導の天下普請の城も築かれました。これがいわゆる「慶長の築城ラッシュ」。この築城ブームによって、建ちも建ったり全国に約3000もの城が林立していたとか。もちろんすべてに天守があったわけではありませんが、それでも江戸時代までに数百基もの天守が建てられたといいます。

でも、現在残っている天守は、全国にたったの12基だけ。これは一体なぜなのでしょうか? 城激減の大きな理由の一つは、豊臣家の滅亡後に出された「元和の一国一城令(本城以外の城が廃城となる)」と「武家諸法度(城の新築禁止。修理も許可制となる)」です。このお達しで、この時なんと95%もの城が消滅したといいます。その後長い江戸時代を経て明治維新を迎えると、城激減のもう一つの波がきます。これが「廃城令」(または「城郭取壊令」「存城廃城令」)です。実際にはもっともっと長〜いお達し名なのですが、略してこう呼ばれています。

「明治に城がたくさん壊されたらしい」ということは、ちょっとでも城の歴史をかじった人なら知っていると思いますが、今回はその背景や詳細をみていきましょう。