上のように、敵の襲来によってまず被害に遭うのは、城下の庶民たち。とはいえ、殿様のもと領民としてその土地で自分たちの生活をしているのですから、じっとして無抵抗で敵にいいようにされるなんてまっぴら。戦が始まるとわかれば、自分たちの身を守るために行動を起こしました。当然、逃げるわけですが…さて、どこへ? それが、城だったのです。「え?お城は役所であり城主の住まいなのに、武士以外の庶民が出入りできたの?」と、多くの人が思うかもしれません。ところが、どうやら武士が台頭して城が激増していった中世以降、特に戦国時代には、領民たちはいざという時に、その領域の城(城が遠い場合は避難に適した山)を緊急避難所として使っていました。これがほとんど習俗となっていたようで、多くの史料にその様子が記されています。

とはいえ、城内のどこもかしこも開放するわけではなく、本丸などの主要な曲輪は、立入禁止。でも、それ以外の外側の曲輪を自軍の者に限って出入り自由にして、避難所とした城が多かったようです。そこに自分たちで簡易な小屋などを建てて、一つの町のようになったこともあったとか。整備されて歩きやすい上に、遺構もしっかり確認できる山城として、ビギナーにも人気の滝山城(東京都)の山の神曲輪は、まさにこういった領民の避難所のような用途だったとみられています。

このほか、天正12年(1584)、肥後一帯の制圧を目指した島津軍に、「陣所として城を提供せよ」と通告された山鹿城(熊本県)では、城内が避難してきた民衆でいっぱいになったため、入城できなかった島津軍が低地に宿営するほかなかったという話も。また、羽柴秀吉の兵糧攻めに遭った鳥取城(鳥取県)も、その時多くの庶民が避難しました。長引く籠城に耐えきれなかった要因の一つだったでしょう。