たくましく合戦を生き抜いた女性たち
また城内にいた女性たちも、受け身の悲劇的なイメージとは異なり、実際にはさまざまな役割を担っていたようです。まず城主の妻にとって、籠城中に城兵たちを励まして士気を鼓舞することは非常に重要な役割でした。佐々成政に攻められた末森城(石川県)を守っていた前田利家の重臣・奥村永福(おくむらながとみ)の妻「つね」は、援軍が来ないため自害を覚悟していた夫を励まし、城内の女性たちとともに、粥をふるまって士気を鼓舞。これによって利家の援軍が来るまで持ち堪えたといいます。

ほかに、城主の留守を守った女性の例として、豊臣勢による北条攻めの時、北条方成田氏の忍城(埼玉県)で水攻めに遭いながらも戦って守り切った太田夫人と甲斐姫の話や、関ヶ原合戦前に家の存続のため親子兄弟で敵味方に別れ、敵となった舅・真田昌幸が孫の顔を見に来るも、断固として門前払いした小松姫(真田信之の妻で本多忠勝の娘)の話も有名ですね。また、夫の戦死によって自ら岩村城(岐阜県)の女城主となって城を守った織田信長の叔母・おつやの方の話もよく知られます。

城主の妻や娘以外の女性だって、重要な仕事がありました。武具の手入れ、負傷兵の手当てはもちろん、消耗品である鉄砲玉も、籠城中は城内でどんどん製造しなければなりませんでした。さらに、討ち取った敵兵の首にお歯黒やお化粧を施すなんていうとんでもない仕事も。これは、関ヶ原合戦時の大垣城(岐阜県)で籠城した武士の娘が語った『おあむ物語』に書かれています。お歯黒やお化粧をするのは身分の高い武士の証だったため、手柄を大きく見せるために味方の兵からよく頼まれたのだとか。たくさんの生首の中で眠ることも、そのうち平気になったそうですよ。

また、戦国時代ではありませんが、幕末の会津戦争では、会津若松城(福島県)を守るため、女性たちが上に挙げた怪我の手当や弾薬の製造などに加えて、槍や薙刀・鉄砲を手にして、薩長軍相手に実戦でも果敢な活躍をみせました。

武士の花道である合戦。一見無関係に見える城下の庶民や城内の女性たちも、ただただ戦況に身を委ねるばかりではなく、自ら城に避難して身を守ったり、城内で自軍の一員として大切な仕事を遂行するために働いていたのです。なるほど、やっぱり戦は総力戦。そしてやっぱり城は、いざという時に武士もその家族も、そして領民も…みんなを受け入れて守る紛れもない「軍事拠点」だったということも、再認識できましたね!