お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する城びとの人気連載、「超入門! お城セミナー」。今回は、城内のトイレについて解説します。人が生活する場には欠かせないものであるトイレですが、お城ではどのような場所につくられ、どのように使われていたのか? 発掘された遺構や現存・復元の厠跡から戦国・江戸時代のトイレ事情に迫ります!

人あるところにトイレあり……戦国時代の厠事情
私たちの生活になくてはならないものの一つである「トイレ」。当然ながら戦国時代・江戸時代の武士だって用を足す場所が必要だったわけで、生活空間には必ずトイレがありました。でもお城見学に行った時、観光客用のトイレは数多あれど、遺構としてのトイレはあまり見たことがありませんよね。そこで今回は、お城でのトイレ事情、戦国時代・江戸時代のトイレ事情、さらにトイレの遺構について迫ってみましょう。

まずは、ネーミングから。史料には「厠(かわや)」や「雪隠(せっちん)」と記されていることが多いようです。「かわや」は、奈良時代からあるトイレの最も古い呼び名です。その語源は、古くは川や溝の上に設けられたことから「川屋」というのが有力で、他に多くの人が行き交うから「交屋」、昔は母屋のそばに別に設置されたため「側屋」という説も。いっぽうの「せっちん」も明確な由来は不明ですが、一説に禅宗の用語「せついん」が変化したものだとか。

茶道では、門の外に設置して実際に使用した「下腹雪隠(したばらせっちん)」と、装飾用で内路地(門内の庭)に設置した「砂雪隠(すなせっちん)」があります。後者は千利休が豊臣秀吉のために考案したのが始まりといわれ、別名を「飾雪隠(かざりせっちん)」とも。きれいに掃除された雪隠が、客への心遣いを表します。名護屋城(佐賀県)跡周辺の、前田利家(まえだとしいえ)や木村重隆(きむらしげたか)など4名の大名の陣跡からは、この飾雪隠の遺構が出土。全国で最古の発見例だそうですよ。