少年期から非凡な才能を見せる信玄ですが、父・信虎とは不仲だったと言われています。『甲陽軍鑑』(武田家の歴史や戦術を記した軍学書)には、初陣で信虎に手柄を認めてもらえなかったことや、信虎が信玄を嫌い、弟・信繁を跡継ぎにしようとしていたことなどが書かれています。ただし、これらの逸話は他の史料では確認できないため史実ではないとも。

そして天文10年(1541)、親子はついに決裂。信虎が今川義元に嫁いだ姉のもとを訪問した隙を突いて、信玄は板垣信方(いたがきのぶかた)ら重臣とクーデターを決行。今川領との国境を封鎖して信虎を追放してしまったのです。このクーデターは理不尽に家臣を粛清し、妊婦の腹を割かせたという信虎の「悪逆無道」を止めるためというのが有名ですが、これは信玄の行動を正当化するための後付けの可能性が高いでしょう。

信濃をめぐる龍虎の争い
父を追放した信玄は、隣国・信濃の攻略に取りかかりました。当時信濃の諏方頼重(すわよりしげ)・村上義清(むらかみよしきよ)とは同盟関係にありましたが、頼重が敵と勝手に和睦したため、同盟違反を口実に諏方家の居城・上原城(長野県茅野市)を攻めます。城を落とした信玄は頼重を自害させ、彼の娘(諏方御料人)を側室としました。彼女が産んだ信玄の四男・勝頼は、滅亡した諏方家を継ぐ子として育てられることになります。

諏方家滅亡後、信玄が狙ったのは同盟相手だった村上義清でした。上田原の戦い(1548年)と砥石崩れ(1550年)の2度にわたって大敗するも、天文22年(1553)には義清を信濃から追放することに成功。ところが、この信濃攻略は思わぬ敵を招くことになるのです。

信濃から逃亡した村上義清は越後へ亡命。上杉謙信(当時は長尾景虎)に領地回復を要請します。これ以上、信玄が北上すれば本拠地・越後を脅かされることもあり、謙信は快諾し度々信濃へ出陣。信玄も彼と対抗するため、駿河の今川義元、相模の北条氏康と同盟を結んで後顧の憂いを断ち、両者は5度にわたって川中島で合戦を繰り広げました。これが世に言う川中島の戦いです。