外部からこの“城”に入るには、「切通し(きりどおし)」を通る必要がありました。切通しとは山や丘の一部を掘削し、人工的に切り開いて通した道のこと。鎌倉の出入り口としては7つ切通しがあり、「鎌倉七口」と呼ばれてきました。朝夷(比)奈(あさひな)口・名越(なごえ)口・巨福呂坂(こぶくろざか)口・亀ヶ谷坂(かめがやつざか)口・化粧坂(けわいざか)口・大仏坂(だいぶつ)口・極楽寺(ごくらくじ)口の7ルートです。車道などのために開発されてしまった切通しも多いのですが、往時の姿を偲ぶことができる切通しを写真で紹介しましょう。

これらの写真からもわかるとおり、切通しはときにすれ違うのも気を遣うほどせまいため、大軍で攻めたとてゴリ押しするのはなかなか困難! 逆に守備側は兵数が少なくても、要所を押さえればとても守りやすい。地の利を最大限利用できたのです。

このように、攻めにくく守りやすいという特徴が、鎌倉が「鎌倉城」と称されてきた理由です。

頼朝はなぜ鎌倉を本拠地にしたのか?
それでは、源頼朝は攻めにくく守りやすいという「鎌倉城」の特質を見抜いて、ここに幕府を建てたのでしょうか。歴史を振り返ると、どうやらそれが1番の理由ではなかったようです。

鎌倉と源氏のゆかりは、平安時代中後期までさかのぼります。頼朝の5代前にあたる源頼義は朝廷から相模守(神奈川県の知事のような立場)を命じられて、鎌倉をその本拠地にしました。今とは違う場所ですが、鎌倉に鶴岡八幡宮を建立したのもこの頼義です。

頼朝の父親である源義朝の館が鎌倉にあったこともわかっています。頼義以降、歴代の源氏棟梁が鎌倉の地を守っていたということでしょう。鎌倉入りを果たした頼朝は、自分が正統な源氏棟梁であることをアピールするため、真っ先に義朝の館跡を尋ねました。頼朝はここに自分の屋敷を建てようとしましたが、地形的にせまかったため断念したといいます。