戦国時代を彩った大名や武将の生涯と城との関わりを紹介する城びとの人気連載「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。武田信玄の生涯を前後編で追います。今回は後編、駿河侵攻と西上作戦、そして信玄の死を解説。謙信との戦いで大きな犠牲を払った信玄は、北進を諦め西へ進出します。信玄の果てなき野望が行き着いた先とは——?

対立した嫡男を死に追い込む
信玄が第四次川中島の戦いで信濃国における優位を決定づけた永禄4年(1561)の前年、桶狭間の戦いが勃発。駿河・近江の2国と三河・尾張の一部を領する大大名・今川義元が当時無名だった織田信長に討ち取られたこの合戦は、武田家の運命も大きく変えることとなります。

義元討死の直後、信玄は後継者・氏真と同盟継続を約束しますが、今川領で反乱が相次ぐと、信玄は今川家から距離を取り、織田信長と同盟交渉を行います。この頃、信濃はほぼ制圧され、その先は強敵・上杉謙信の本国・越後であるため北方面での領土拡大は望めなくなっていました。恐らく信玄の頭の中では、すでに豊かな海を持つ今川領を手に入れる野望が生まれていたことでしょう。

しかし、長年の同盟相手を裏切るような行為は、家中の反発を呼びました。特に義元の娘を妻としていた信玄の嫡男・義信を中心とする親今川派が激しく反対し、信玄と対立。嫡男との対立に信玄は苦悩しますが、家中対立を鎮めるため非情な決断を下します。永禄8年(1565)10月、信玄は謀反の罪で飯富虎昌(おぶとらまさ)ら義信側近を処刑。義信も廃嫡の上、東光寺(山梨県)に幽閉してしまいます。

事件後、信玄は織田家と同盟を結び、同盟の証として信長の養女・龍勝院が信玄の四男・諏方勝頼に嫁ぎました。そして、2年後に義信が急死すると、次男・信親が眼病のため出家し、三男・信之も早くに病死していたため、勝頼が後継者に指名されます。