7月から円の対ドルレートが激しく乱高下している。7月14日には一時139円台と24年ぶりの安値をつけた後、1週間で6円急騰し、8月2日には130円台にまで達している。この変動幅は異常で、その意味することは円が投機の対象になっているということだ。アメリカの利上げが止まらない中、「動けない」黒田日銀総裁の悩みは深い…

アメリカは景気を犠牲に


FRB(米連邦準備理事会)は7月27日、0.25%の利上げを決めた。政策金利は0.25%刻みで動くことが多いので、この利上げは通常の3倍になる。しかも、FRBは6月にもやはり0.75%の利上げをしている。これで今年3月からの利上げ幅は通算、2.25%となった。

アメリカの4〜6月期GDPはマイナス0.9%(年率)で、1〜3月期もマイナス成長だった。一般的に2四半期連続のマイナス成長は景気後退(リセッション)と見なされる。そのため議会ではアメリカ経済は景気後退局面に入ったのではないかと議論が起こり、マーケットも利上げの減速、早期打ち止めを織り込み始めている。

しかし、FRBはファイティング・ポーズを崩さない。「次回9月も0.5%利上げが妥当だ」というシカゴ連銀総裁の強気発言を口火に、金融政策担当者から大幅利上げ継続発言が相次いでいる。少なくとも現時点で、インフレとの戦いを緩めることはできないと判断しているのだ。

実際、アメリカ経済はインフレ材料に事欠かない。6月のアメリカ消費支出物価は6.8%上昇。これは40年ぶりの伸び率だ。7月の雇用統計も就業者が53万人近くも増えた一方で、失業率は3.5%と歴史的低水準にとどまったままだ。

人手不足で企業は賃上げを迫られている。購買力が上がり、インフレ予想が消費を刺激し、それがさらなるインフレ圧力となっている。エネルギー価格の高騰はいったん沈静化の様子を見せているものの、冬には再燃しかねない。またサプライチェーン分断による供給制もただちに収まる兆しはない。

二兎を追うことはできない。アメリカの金融政策は今、景気を犠牲にしてでもインフレを抑え込むという覚悟を示している。


「よく買うもの」の物価上昇率は5%超え


日米の長期金利(10年物国債利回り)の格差は3%以上に拡大した。低金利の円を売って高金利のドルを買うのは、市場の原理からいえば当然の行動といえるだろう。資源の乏しい日本は価格が高騰するエネルギー、食糧などを輸入するために、より多くの円をドルに替えなくてはならない。その結果、円はさらに安くなる。

この円安スパイラルがインフレ圧力となることは避けられない。6月の日本の消費者物価上昇率は2.2%。これで3ヶ月連続の2%超となった。米欧と比較すれば低いようだが、企業物価指数(企業間取引物価)上昇率は6月9.2%で、調査を開始した1960年以降でもっとも高くなった。この12ヶ月間で見ても、企業物価指数は連続で5%超上がっている。

消費者物価の上昇が欧米より穏やかに見えるのは、消費が伸び悩み、企業が増加したコストを価格に転嫁できずにいるからにすぎない。企業が価上昇コストを背負えば、賃金は抑制され、消費増大の頭を抑えつけることになる。

日本の物価上昇の特徴は「二極化」だ。「よく買うもの」ほどインフレ率が大きく、「まれにしか買わないもの」の値上げ幅は小さい。5月の物価上昇率は2.5%だったが、物価算定対象582品目のうち、年間購入回数が15回を超える品目は5%を超える一方で、年間0.5回未満の品目は1.7%だった(日本経済新聞6月25日付け記事より)。

この双方の品目をならして2.5%だということだ。つまり、私たちは生活実感としては2倍の物価高に直面している。

さらにモノとサービスの物価二極化も日本のインフレの特徴だ。7月23日付日本経済新聞によれば、6月の消費者物価のうち食品などのモノが前年同期比4.9%上がり、運輸や娯楽などサービスは逆に0.3%下がっている。

サービス価格が低迷するのは需要が鈍く、賃金が伸び悩んでいるせいだ。また、サービス部門は輸入物価上昇の影響が小さいということも要因となっている。

このように、日本経済はデフレ構造を脱却できないまま、円安インフレに襲われていると見るべきなのだろう。6月の実質賃金(名目賃金上昇率から物価変動の影響を除いた数値)は前年同期比でマイナス0.4%だった。これで減少は3ヶ月連続だ。


すでに円は投機の対象に


にもかかわらず、日銀は「インフレは一時的だ」と言い張っている。FRBもECB(欧州中央銀行)もそろって同じような認識を示していた時期がある。だが、今もそう主張し、金融緩和策を維持しているのは世界で日銀だけだ。

7月21日、日銀は大規模金融緩和の維持を決定し、黒田総裁は利上げについて「全くない」と断言した。良し悪しは別にして、中央銀行トップが金利について断言することに世界は驚いたに違いない。

たしかに、現在のインフレ圧力は資源価格高騰によるものだし、利上げで日米金利差を多少縮めても円安がどうなるものでもない。しかし、世界の主要中銀がそろって利上げを繰り返しているなかで、ただ一人日銀だけがいっそうの金融緩和に向かっていることも事実だ。

今さら「アベノミクスではデフレを克服できませんでした」と仕切り直せないという恨みもあるのだろうが、黒田総裁の「断言」は別の攻防の場に向けられたものと見る。

先に見たアメリカの追加利上げ、利上げ減速観測、利上げ継続表明という動きのなかで、円の対ドルレートは激しく乱高下した。7月14日には一時139円台と24年ぶりの安値をつけた後、1週間で6円急騰し、8月2日には130円台にまで達している。

深まる米欧の景気後退懸念、ペロシ米下院議長の台湾訪問リスクなどで市場に警戒感があったとはいえ、このボラティリティ(変動幅)は異常だ。

その意味することは円が投機の対象になっているということだ。なにしろ、日銀は「動かない」と宣言し、利上げに踏み切る気配はない。長期金利もいわゆる指値オペでコントロールすると明言している。

長期金利は市場取引の対象となる10年物国債利回りであり、需給で変化するものだ。しかし、日銀はこれを利回り0.25%で無制限に購入することで同水準金利を維持するという。つまり、市場価格より高く国債を買うつもりだ。

したがって日本国債の価格は「強がっている」状態といえるだろう。同時に日本経済は円安インフレに襲われ、物価上昇に対する世論の不満も高まる。

さて、それでも「動かない日銀」は持続可能なのだろうか? その問いにこそ、投機の動機がある。市場は「いずれ日銀は長期金利を上げざるを得なくなる(国債価格は下落する)」と読み、先物売り(今決めた価格で先のある時点で売る)契約を仕掛ける。そのとき価格が下がっていれば、安くなった国債を買って高く売ることができる。

予測が外れ、日銀が踏ん張って長期金利を維持できたとしても、その時は拡大した日米金利差を利用してキャリートレード(低金利の円を調達して高金利のドルで運用する)取引で儲けることができる。どちらにしても、「動かない」日銀のおかげで投機筋は稼げるのだ。

黒田総裁は物価上昇率2%という異次元緩和の目標を達した時点で、「動かない」ではなく、「動く!」とアナウンスすべきだった。日銀の政策が動かなくても市場価格は動くのだから。


岸田政権も「日本売り」の材料に


さて、日銀だけを吊し上げていればよいというものではない。投機筋の目には日本政府も投機のチャンスと映っている可能性が高いからだ。

そもそも、円が売られるのは金利や貿易赤字も材料だが、何よりも日本経済に「買い」材料がないからだ。賃金が上がらず、デフレから脱け出せない。がんばって最低賃金を上げたとしても米欧の賃上げ水準には遠く及ばないどころか、労働時間の短縮や雇用停滞で逆に所得減につながりかねない。

デジタル化やリスキリング(学び直し人材投資)などの成長戦略が見えず、生産性向上も期待できない。アベノミクスを総括することもできず、岸田首相が打ち出す「新しい資本主義」もさっぱりその全体像が見えない。金融引き締めに動けない日銀と同じく、日本政府もまたデフレ脱却に向けて動けずにいる。

向こう3年間、国政選挙の予定がない日本。動きがない岸田政権はたとえ支持率を維持できても、投機筋にとっては魅力的な日本売りの材料に満ちているのだ。

文/金俊行 写真/shutterstock