マレーシアに11年住む文筆家・野本響子さんが上梓した「東南アジア式『まあいっか』で楽に生きる本」(文藝春秋)。本書には、マレーシアに移住した著者が外から見た「日本の不思議な点」が掲載されている。日本にいると当たり前だけれど、世界の人々から「なぜ?」と思われていることを、本書から一部抜粋、再構成してお届けする。
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「不機嫌な人」がいるのが当たり前の家庭
外から日本社会を眺めて気がつくのは、個人よりも、学校や会社といった「組織=システム」にウエイトを置いていることです。
これは家庭でも同様です。
昭和の時代には「地震・雷・火事・親父」のことわざのように、家族に怒鳴りちらし、ちゃぶ台をひっくり返す父親像がありました。
一九七〇年代には、三船敏郎を起用した「男は黙ってサッポロビール」というCMが大ヒットし、「飯・風呂・寝る」だけで夫婦の会話を済ませてしまうと揶揄(やゆ)されました。家庭の中に「不機嫌な人」がいるのは当たり前だったのです。
また、姑や小姑にいじめられる「嫁」をテーマにしたドラマも話題になりました。
「家」というのはもともと「我慢するところ」で、「楽しいところ」ではなかったのかもしれません。そういう時代ですから家族同士の対等なコミュニケーションはあまり重視されていませんでした。
女性側もそれに対し、「亭主元気で留守がいい」「お金さえ入れてくれればいい」というようになっていきました。

シンガポールのリー・クアンユー元首相は、『One Man’s View of the World(未翻訳)』 で、日本のこの問題を指摘しています。
『しかし、女性たちが旅行し、世界の他の地域の人びとと交流し、働く自由と経済的に自立することを味わうにつれて、彼らの態度は劇的かつ不可逆的に変化しました。たとえば、シンガポール航空で働く日本人女性の中には、シンガポールの客室乗務員と結婚した人もいます。
彼らは、シンガポールの女性がどのように生きているかーー威張って命令しまくる義理の親や夫たちから離れるライフスタイルがあることーーを知りました。日本社会は、女性をできるだけ長く男性に経済的に依存させようと最善を尽くしましたが、失敗しました』(筆者抄訳)
バブルの時代には女性が男性に結婚相手の条件として求めた「高学歴・高身長・高収入」を表す頭文字を取って「3K」という言葉が流行りました。
こういった時代を経て、家族が精神的なつながりというよりも、経済的な基盤を共にする共同体として認識されるようになっていったように見えます。
最近ではずいぶん社会も変化したようですが、日本では、家事や育児でもいつもの「ちゃんと」を発揮しています。
日本の家族がマレーシアに来て、いざお金を払って現地のメイドさんに掃除を頼もうとすると、「質が悪い」「ちゃんとやってくれない」などさまざまな理由で「自分がやった方がいいから」「ここは譲れない」と雇うのを諦めてしまうケースが多いのです。
ある程度テキトーに考えないと、他人に物事を頼めなくなってしまいます。
家庭内でも「夫の皿洗いが雑」などと文句を言って喧嘩になってしまい、「ちゃんとしている」「いない」で争っている人もいます。これでは、お互いに家庭で安らぐことは難しいかもしれません。

また日本には、孤独を紛らわせるためのサービスが山ほどあります。
お金さえ払えば、相手の本音を気にせずに、理想的な相手と疑似的な関係を築くことができたりします。そういったサービスをたくさん使うことで心が癒され、幸せを手に入れたと感じられる人が少なくないため、マレーシアの人のように「家族が大事」とはならないのかもしれません。
社会に蔓延する「怒り」を正当化する人びと
日本にいたときは「当たり前」だと思っていたことが、マレーシアに来てそうでないと気がつくことがあります。
日本に一時帰国するたびに、街で怒っている人を見かけます。
反対に、マレーシアに来てから十年、実はまだ街で怒りを爆発させている人を見たことがありません。道や駅などで誰かの怒声を聞くことも、クレームをつけられている店員さんを目にすることもほとんどないのです。
最近マレーシアに越してきた友人も、「ここには不機嫌な大人が少ないですね」と話します。
マレーシアではよく「人前で他人を怒ってはいけない」と言われます。宗教の影響もあるでしょうが、人前で怒りを表すと「感情のコントロールができない人」と見なされます。怒りによって人を動かそうとすると自分が損をするのです。

似たものに、「叱られるのが当たり前の文化」があります。
日本のカスタマーサービスで働いていたとき、「怒りまくるお客さん」にたびたび遭遇しました。
怒りまくる顔ぶれは毎回同じで、「言葉遣いがなっていない」「説明の順番が間違っている」などと文句をつけます。
この人たちがなぜ怒っているのか。
その理由を聞くと、決して変な人たちではないのです。サービスが自分の求める「ちゃんとした基準」に達していないことに怒り、そのミスを指摘して訂正して教育してあげなければ、という正義感に発していることが多いです。あくまで善意から出ているコミュニケーションの一種なのです。
だんだん名前が知られてきて、「またこの人か」となってくると、スタッフも面倒を避けようと受け答えが冷たくなっていきます。誰も電話を取りたがらないので、「話を聞いてもらえない」ことが余計彼らをイラつかせてしまうのかもしれません。

一方、マレーシアで顧客対応の仕事をしていたとき、怒鳴ったり嫌味を言ったりするお客さんに出会ったことは記憶にありません。この違いは何かというと、日常で家族とのコミュニケーションに満足している人が多いことと、人種や宗教によって正しさが異なるため「ちゃんとしていること」をそこまで求めないからではないかと思います。
むしろ怒っている顧客は後回しにされたり、避けられたり、無視されたりと、いいことはないのです。中には「あの顧客はいつも怒鳴るので、この業界では誰も仕事を受けたがらない」と言われたこともあります。「これでけは譲れない」が多い人ほど、この罠にハマるのだと思います。
もうひとつが上下関係の影響です。
中学時代に、先輩に挨拶しなかったり、うっかり目が合ったりすると、「生意気だ」「ガンをつけた」とか言われて怒られたり意地悪される。けれど、この先輩たちも、自分より年上の先輩にはやたら腰が低い。こういった上下関係が大人になってもそのまま社会に持ち込まれてしまい、怒りにつながるのかもしれません。
もちろん、イジメはどの社会にもあるのですが、日本社会の特徴は、大人社会も子ども社会と同じように機能していることだと思います。よく考えたら、学校から社会が新卒一括採用のため一直線でつながっているから当然なのです。同じことをしても、自分が高い地位にいれば誰からも、「叱られない」のです。そのためか「怒りを正当化する人」もよく見かけます。
「怒りを正当化する人」は、「叱られて俺も一人前になった」とか、「躾のつもりだった」とか言います。一九八〇年代に死亡事件を起こし、社会問題化した戸塚ヨットスクールのようなスパルタ式の「しごき」をわざわざお金を払って子どもに受けさせる親もいます。
叱られた方も、「育ててもらった」「怒られたから今の自分がある」と自分を正当化します。私も少しその気かあるように思います。
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『東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本』
野本 響子
¥1,540
184ページ
ISBN: 978-4163916583
この本は、日本がなんだか辛いな、苦しいなと思っている方のための本です。
野本さんはマレーシアに家族で移住して10年。いまは海外教育や海外移住について書いたコラムやラジオ、講演会で大人気です。
一見不便で給与水準も低いのに、楽しそうな人が多いマレーシアという東南アジアの国。この国で学んだ人生を楽しく暮らす方法を紹介します。
野本さんは子どもを産む前、「こうすべき」が多い人間でした。
ー子どもが引きこもりになったらどうしよう
ー不登校になったらどうしよう
ーいじめられたらどうしよう
と不安でいっぱいでした。「子育ては親の自己責任で」とか「子どもをちゃんと育てられないのなら産むな」と言う人もいて、「そんなの産んでみないとわからないよ。きっついな」と思っていたそうです。そんな中で「嫌なら転校すればいいだけ」というマレーシア人や「子育てはテキトーでいい」とする日本人たちの存在は光明に見えたそうです。マレーシアに住んでみて気づいたのは、世界は自分が思ってるよりさらに広くて多様だということ。日本はかなりユニークで変わった文化だということでした。マレーシアに来て数えきれないほど様ざまな失敗をし、
―ほとんどのことには正解がない
―他人に期待しないと怒らなくて済む
―他人はコントロールできない
―精神のコントロールは自分でする
―白黒つけるのをやめる
―80%くらいの完成度で世の中に出す
―スピードの方が大事
―他人を助けると自分に返ってくる
といったことを現地の人々から教えてもらい、ずいぶん生きやすくなったそうです。
日本人は圧倒的に「ちゃんとしなくては」で苦しんでる人が多すぎる。しかし世界を見ると、そこまで厳しく緻密さや正確さは求められていないのです。海外進出する企業や学校教育の現場において、感情をコントロールすることの大切さをユニークな視点で書いたエッセイ。