北海道各地で目撃通報が相次いでいるヒグマ。絶滅の恐れから30年以上前に廃止した春の駆除を解禁するなど北海道県警では対策を強化しているという。絶対的対処法のない巨大な動物に、人はどう付き合っていくべきなのかに迫った『日本クマ事件簿』(三才ブックス)より、国内最多の死者数を出したヒグマ襲撃事件の一部を抜粋、再構成してお届けする。

#2

2軒の開拓農家が襲われ、胎児1人を含む7人が殺害


北海道苫前村に暮らす2軒の開拓農家が襲われ、胎児1人を含む7人が殺害、そのほか3人が重軽症を負った。悲惨極まる未曾有の惨事である。

三大悲劇の一つとされる本事件は、当時『小樽新聞』や『北海タイムス』で多く報道されていた。その後も1947年に発刊された『熊に斃れた人々痛ましき開拓の犠牲』(犬飼哲夫/1947年)、事件の生存者などから聴取した内容を記述した『苫前ヒグマ事件』(木村盛武/1980年)、さらに『慟哭の谷戦慄のドキュメント苫前三毛別の人食い羆』(木村盛武/1994年)、『ヒグマそこが知りたい理解と予防のための10章』(木村盛武/2001年)など、100年以上昔の事件にも関わらず、長きにわたってこの事件についての書籍がいくつも出版されている。最近では『ヒグマ大全』(門崎允昭/2020年)等にも詳細な情報が記されており、話題が尽きることはない。


1915(大正4)年12月15日の「小樽新聞」。『日本クマ事件簿』より


原野の村にヒグマ侵入。第一の事件が起こる


北海道苫前村(現・苫前町)は道北の日本海沿岸部に位置し、大正時代中頃まで、市街地と宅地、その周辺の農地を除き、ほぼ全域にヒグマが棲息していた。

事件が発生した三毛別の六線沢(現・苫前町三渓)は、苫前村の中でも市街地から遠く外れた山深い場所、海岸線から直線距離で10キロほど離れた山中の一角である。中央部にルペシュペナイ川が貫流し、日本海へと注ぎ込むまでいくつもの支流を集めていく。三毛別はアイヌ語で「サンケ・ペツ」、「川下へ流し出す川」の意。そんな原野だった当時の三毛別は、野生動物、ことにヒグマにとっては絶好の棲息圏であった。

史上最悪と呼ばれる本事件は、12月9日午前10〜11時の間(新聞報道では、午後7時頃)に第一の惨事が発生する。

当日の天候は晴れていたが、70センチの雪が積もっていた。厳しい冬がすでに訪れ、ヒグマはこの時期を前後して冬ごもりを始める。

そんな状況下、三毛別山の西およそ2・5キロ地点、ルペシュペナイ川右岸に暮らすA(42歳)家に突然の悲劇が襲う。当時の開拓民の小屋は、ほぼすべてが同様だったようだが、馬小屋のような掘っ建て小屋であったというA宅に、1頭のヒグマが侵入して来た。オスの成獣であった。


母と養子の息子を喰らう。遺体は引きずり出され......


乱入したヒグマは次々と住人を襲った。被害に遭ったのは、在宅していたAの内縁の妻であるB(34歳)と養子のC(6歳)。この2人がヒグマに襲われ、殺害される。さらにヒグマはBの遺体にかぶりつき、そのまま持ち去って行った。

家主のAはちょうど林道工事の仕事で外出しており、難を逃れた。とはいえ、帰宅後のAには凄惨な現実が待っていた。養子Cの遺体を発見したうえ、妻Bの姿がないことに愕然とする。だが、この時点で陽はすでに傾きかけており、Aはほとんど何もすることができなかった。

事件発生直後、奇しくも羽幌町の農家である松永米太郎がA家の前を馬に乗って通過していた。その際、小屋から山の方へ向かって点々と続く血痕を目にしている。当時はマタギがウサギなどの獲物を引きずって歩くことも珍しいことではなく、「村人が山で獲ったウサギでも引きずって帰って来たのだろう、その血の跡だろう」、松永はそう思ったという。ところが、現実は違った。その血痕は、ヒグマが引きずって行ったBの遺体によるものだった。

事件発生の翌10日、村の男衆が集まり、Bの捜索を始めた。先に松永が見た血痕を発見し、雪上に残っていたヒグマの足跡と血痕をたどった。午前9時頃、A家から東に150メートルほど離れた地点、A宅の裏山で巨大なヒグマを発見した。

銃を持っていた何人かが、銃口をヒグマに向け発砲した。ところが弾を発射した銃はわずか一丁だった。手入れの悪さなどが原因だった。わずか一発の銃弾はヒグマに当たらず、事態はむしろ悪化した。発砲によって男衆たちに気づいたヒグマが、彼ら目がけて突進して来たのである。

ところが、ヒグマは一転、山の方へ向かって立ち去って行った。怖気づいた男衆たちは、一目散に村へと戻った。


参考:『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(木村盛武/1994[平成6]年)。『日本クマ事件簿』より


すでに午後3時を回り、辺りは薄暗くなり始めていた。とはいえ、この事態を放置するわけにはいかない。そこで再び男衆は現場へと向かった。先ほどヒグマを発見したトドマツの辺りをよく見ると、血痕で赤く染まっていた。小枝の間にBの遺体が横たわっていた。頭髪をはがされた頭蓋骨と膝下の足だけという、あまりにも無惨な姿だった。それ以外はすべて食い尽くされていた。

頭部と四肢下部を食い残すのはヒグマの習性とされている。ウシやウマ、シカを食べる場合も同様の食い方をするという。また、残された遺体にはササなどが被されていた。このような行為も、ヒグマの習性といわれている。

その後、一行は遺体を収容し、A家へと搬送した。


遺体が飛び散る通夜の惨事…獲物を取り返しに再び現れる


その晩、悲しみに包まれたA家にて通夜が行われた。

同時に、この惨劇を知った村民一同は、ヒグマに怯えていた。そこで女衆や子どもたちは、比較的家が広く、地理的にも安全と思われた近隣のD宅に避難していた。

そのため通夜に集まったのは、A家で養子として暮らしていたCの父であるa夫妻のほか、村の男衆、合計9人というわずかな人々であった。これには、もう一つの理由があった。

「クマは獲物があるうちは付近から離れない」

開拓民は小さい頃からそう聞かされていたからである。できればA家には近づきたくない、そう思い恐れる者がほとんどだった。

この教訓は間違っていなかった。通夜のさ中、驚愕の事態が参列者に襲いかかる。
午後8時頃、逃走していたヒグマが、再びA家へ侵入して来たのである。BとC、2人の遺体を安置していた部屋の壁を破っての乱入だった。

灯していたランプが消え、2人の遺体を納めた棺桶がひっくり返された。バラバラになった遺体が床に転がり散った。

暴れまくるヒグマに、男衆が近くにあった石油缶をガンガン打ち鳴らした。さらには空砲を撃つなどして反撃に出た。すると、間もなくしてヒグマは家の外へと逃げて行った。

幸い、この場で被害者は1人も出なかった。だが、この時もヒグマを仕留めることはできなかった。



避難所を襲った暴れグマ…約50分間続いた惨劇


その後、さらなる悲劇が発生する。
通夜を行っていたA家から北500メートルほどの地点に居を構えるD宅、女衆と子どもたちが避難していた家屋が惨劇の場となった。

この時、D宅には、合計10人(胎児を含めると11人)が身を潜めていた。
D(40歳)の妻E(34歳)、長男F(10歳)、次男G(8歳)、長女H(6歳)、三男I(3歳)、四男J(1歳)の6人、さらに妊婦のL(34歳)、その三男M(6歳)、四男N(3歳)、A家に寄宿していたO(59歳)の4人である。家主のDは急用で隣村に出かけていた。

ちなみに、妊婦のLとその子どもたちが本宅に避難したのは、夫であるK(42歳)が事件の通報をすべく苫前村役場や古丹別巡査駐在所に出向いたことによる。当初は、最も安全といわれた三毛別分教場に避難する予定だった。

不幸にも多くの人が集まっていた避難所にヒグマが侵入する。通夜会場であるA家からヒグマが逃げ出した直後、午後8時50分頃のことである。



「腹破らんでくれ!腹破らんでくれ!」


D宅では、妻のEが大鍋を炉にかけ、夜食の準備をしていた。その時だった。激しい音とともに窓を打ち破ってヒグマが家の中へと飛び込んで来た。突如侵入して来たヒグマは、およそ50分もの間、D家に避難していた人々を襲い続けた。

「腹破らんでくれ!腹破らんでくれ!」
「のどを食って、のどを食って殺してくれろ!」

土間の野菜置き場に身を隠していた身重のLが部屋の中央へとヒグマに引きずり出され、悲痛の叫びが周囲に響き渡った。

家屋内で暴れ続けるヒグマ、この事態をなんとかしようともがく女衆、子どもたちの狂乱と悲鳴がひしめき、避難所は瞬く間に地獄絵図と化した。

この晩、5人の尊い命が奪われた。Dの息子のI、避難していたLとその胎児、息子のM、Nである。Dの妻のEと息子J、Oの3人は重傷を負った。D家長女のHは失神して倒れたことが幸いし、奇跡的にも無傷だった。
落命した5人は、いずれもヒグマの食害に遭っていた。12月という時期から鑑みれば、ヒグマは冬ごもり前の飢えた状態であったものと推察されるが、真相は不明である。


大討伐隊を編成し深刻化する事態に対応


あまりにも凄惨な事件発生後、三毛別の集落から人の姿が消えた。村民はみな恐れおののき、家の戸を厳重に閉ざした。静まり返った村で家の中に身を潜めた村民たちは、みなそれぞれに武器となるものを手にし、ヒグマの襲撃に備えた。

とはいえ、住民だけの力では防御までが精いっぱいだった。ヒグマを捕獲することなど、到底できるものではなかった。その頃、Kによる通報がようやく北海道庁まで届き、官憲が動き始めた。12月12日のことである。

「地方青年会アイヌなどの協力を得て獲殺すべし」

北海道庁保安課が管轄の羽幌警察分署長である菅貢に、そう打電、指示した。これにより、三毛別地区長であったP宅にヒグマ討伐本部が設置された。猟師や農村民を始め、青年団や消防組など、大勢の人々が次第に集まってきた。

12日正午前より、現場検証が始まった。午後には犠牲者全員の検死も行われた。あまりのむごさに、検察官も言葉を失ったという。官民共同によるヒグマ捕獲活動も同時に開始された。

だが、ヒグマをすぐに発見することはできず、討伐活動は思うように進まなかった。見るも無残な犠牲者を目にし、いち早くヒグマを仕留めたい。焦りとともに、討伐隊にその思いが充満した。



「遺体をおとりにするほかない」


冬眠せず、この時期に現れたヒグマは飢えているはず。山にエサはない。ヒグマはまた開拓小屋を狙うに違いない。一度獲物と認識した遺体をまた襲いにくる。そう考えた討伐隊本部は一大決心をする。

「ここは心を鬼にして、遺体をおとりにするほかない」

仏をおとりにすることは耐え難い選択だったが、遺族を含め、反対する者はいなかった。そこまで事態は深刻化していたのである。

遺体がD家の居間に並べられた。討伐隊は屋内各所に身を潜め、それぞれが銃を構えた。考えうる万全の体制をとった。皆が息詰まり、時間だけが過ぎていく。

暗闇の中、ついにヒグマが現れた。緊張が走る。だが、ヒグマは家の周りをうろつくばかりで、中へ入ろうとはしない。討伐隊は狙いを定めるが、一発で仕留める間合いにヒグマが入らない。そうこうしているうちに、ヒグマは屋内の異変を察したのか、再び闇夜へ姿を消してしまった。

その後も討伐隊は交代で銃を構え続けたが、ヒグマは二度と現れることはなかった。


6日間に及んだ惨劇が終結…ベテラン猟師によって射殺される


翌13日も討伐隊の活動は続いたが、ヒグマを捕らえることはできなかった。
だがついに、その時が訪れる。最初の事件発生から6日後、12月14日午前10時だった。7人もの命を奪ったヒグマが射殺された。

射止めたのは、小平(現・留萌管内小平町)鬼鹿の猟師、山本兵吉(58歳)。鉄砲撃ちにかけては天塩国にこの人あり、と評判の猟師であった。

山本は討伐隊と行動を別にし、単独ヒグマを追った。猟師の勘と洞察によるものだった。ヒグマの居所を見定めていた山の頂上付近まで登ると、ミズナラの大木に寄りかかっていたヒグマを発見した。



山本は風下から気配を消し、少しずつヒグマへと接近して行った。ヒグマに気づかれることはなかった。

そして、ヒグマに近づくことおよそ20メートル地点。ここでいったん山本はニレの木の陰に身を隠し、銃口をヒグマの急所である心臓に定めた。発砲した。轟音とともに発射された弾がヒグマの背後から心臓付近に命中した。

一度倒れ込んだヒグマだったが、再び立ち上がり、山本をにらみつけた。即座に山本は第二弾を放った。今度はヒグマの頭部を狙った。発砲。被弾したヒグマがついに倒れた。弾は頭部を貫通していた。射殺場所は、A宅から北北西約2キロ地点であった。

3日間にわたる官民一体による討伐活動は、ここにようやく終結した。編成された討伐隊の人員は延べ600人、同行したアイヌ犬10数頭、装備として用意された鉄砲60丁というものだった。


辺りには熊風が吹き荒んだ…新聞報道と語り継がれる悲話


本事件は、1915(大正4)年12月20日の『小樽新聞』で報道された。本事件のヒグマについての記述内容の一部は以下である。

「雄、金毛、頸部に襷をかけ、年齢は15歳ぐらいで、丈は10尺(約3メートル)あまりもある希代なものなり」(『慟哭の谷』の記述では、「身の丈2・7メートル、体重340キロ」)

「金毛」とは、北海道の猟師がヒグマを毛の色によって大きく三つに分けてとらえているうちの一つにあたる。三つとは、「金毛」「茶のまじり毛」「黒毛」である。一番恐れられているのが「金毛」で、最も凶暴性が高いといわれていた。一方、最も性格が穏やかでおとなしいのが「黒毛」とされていた。

射殺したヒグマは、村民によってソリで山から降ろされた。その際、晴れていた空がにわかに曇り始め、ついには猛吹雪となってしまう。一説には橋の上を腹ばいになって渡ろうとした者が対岸まで吹き飛ばされたという。

それほど激しい風雪がソリを引く一行に降り注ぎ、進行を妨げた。この急な天変を村民たちは「熊風」と呼び、後々まで語り継いだ。

ヒグマによる史上最悪の人身事故とされる「三毛別ヒグマ事件」は、小説やマンガをはじめ、映画やテレビ・ラジオのドキュメンタリー・ドラマなど、さまざまな媒体によって記録・報道されている。

また、事件発生から75年の時を経た1990(平成2)年、「三毛別羆事件復元地」(観覧無料)が北海道苫前町三渓に造られている。



この施設は、本事件・悲話を通して、開拓民の不屈のスピリット、先人たちの偉業を後世に伝えるとともに、犠牲者の冥福を祈り、さらには本事件を風化させないことを切に願う三毛別住人の熱意により実現したものである。ちなみに、北海道道1049号は、復元地の一角に立つ供養塔。飲食物の供物は絶対厳禁「ベアーロード」と名づけられている。

写真/風来堂




#2「〈日本クマ事件簿〉巨大老ヒグマが祭り帰りの団らんを襲撃、4人死亡の恐怖の一夜」はこちらから

#3「〈日本クマ事件簿〉逃げても逃げてもヒグマは追いかけてくる「福岡大ワンダーフォーゲル」3日で6回襲撃の惨劇」はこちらから(6月1日18時公開予定)


『日本クマ事件簿』

三才ブックス

2022/5/20

1,760円

208ページ

ISBN: 978-4866733159

昨今、ニュースでも話題に上ることの多い、クマによる獣害事件。絶対的対処法のない巨大生物に、人はどう付き合うべきなのか。
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