俳優・ラジオパーソナリティとして86歳の今も活躍の幅を広げている毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)さん。ラジオ番組で聞かせる舌鋒が人気で「中高年のアイドル」と称される彼は、1945年の東京大空襲を経験し、現在までその経験を語り、また中高年にも空襲体験を聞き続けている。8月15日の終戦記念日を前に、「聞く、話す」の両面から戦争を伝え続ける毒蝮さんにその思いを聞いた。

12歳のとき、戦災孤児役でデビュー


太平洋戦争終戦から77年。戦争を知らない世代が増えつつある中、メディアで積極的に自身の体験について語るのが俳優・タレントの毒蝮三太夫さんだ。

1948年、舞台『鐘の鳴る丘』の戦災孤児役でデビュー。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の隊員役で俳優として知名度を高めた後、ラジオパーソナリティとしても人気に。1969年に始まった『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』(TBSラジオ)では、町の人々とトークする中継で「ジジイ、ババア」と容赦ない舌鋒が評判となり、「中高年のアイドル」として今なお人気を博している。

86歳となった今も、ポッドキャストやYouTubeなどでも積極的に活動の幅を広げながら、レギュラー放送が続く『ミュージックプレゼント』で中継の現場に立ち続け、地域で出会う高齢者に戦争体験を聞く場面も多い。

毒蝮さんは、9歳のときに東京大空襲を経験。2020年に『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(学研プラス)という、戦争体験も含めた自伝を上梓した。

聞く、話す。当事者として、両面から戦争を伝える毒蝮さんに、“今伝えたいこと”を聞いていく。


毒蝮三太夫さん


今では東京大空襲の体験者は稀有


「俺が戦争のことを話してるのはリハビリだよ(笑)。それとちっぽけな正義感だな。このテーマでテレビやラジオにも呼ばれているし、学校で講演をする機会もあるよ。9歳だった俺は学童疎開に行かなかったから、東京大空襲に遭ったんだ。2人の兄は戦争に行って時間はかかったけれども無事に帰ってきた。戦争を経て、バラバラになった5人家族がまた全員で集まれた。そういう家族ってのは少ないんだよね。東京で空襲に遭って、そのことをしゃべれて、今現役で仕事をしてる。しかも、(メディアに出演しやすい)東京にいるってなると、本当に少なくなったんだなぁ」

自分が戦争の話を求められる理由について、感慨深げに語った毒蝮さん。民間人の戦争体験の中でも苛烈であった東京大空襲だが、東京では子どもたちを学童疎開させていたため若くして体験した人が少なく、必然的に当事者は少なくなっている。



「国民学校の先生に『学童疎開が決まった』と言われたんだが、おやじが『おまえはな、行かねぇんだ』『これまで通り、ここにいるってことだ』と言ったんだ。荏原中延駅(現・品川区)の近くに住んでいたから、友達が集団疎開に向かうのを家の前で見送ったよ。どうせ死ぬなら親子もろとも、とおやじは考えたんじゃないのかな」

東京への特に大きな空襲には、1945年3月10日に上野・浅草・深川などの下町地域を襲った「下町大空襲」と呼ばれるものと、同5月24日に目黒や品川、さらに東京駅や皇居なども含めた山の手地域を襲った「山の手大空襲」と呼ばれるものの2回がある。初の大規模空襲で10万人以上の死者が出た下町大空襲が主に「東京大空襲」として語られるが、家族で品川区(当時・荏原区)に住んでいた毒蝮さんが体験したのは後者だった。

「3月10日の空襲は桐ケ谷の空き地で見たよ。焼夷弾が落ちていく先の城東地区は真っ赤な光の塊に見えた。その日の空襲が初めて軍事施設などではなく庶民の町を標的にしたから、次は自分たちのところも同じように空襲されるんだと知ったんだ」


母の判断が生死を分けた


以降、小規模空襲が何度かあり、5月24日の未明、ついに毒蝮さんが住む地域までB29が襲ってきた。夜中であるから親子3人自宅にいたが、消火活動の途中、父は大工としての仕事先の海軍技研へ行った。危なくなったら逃げるようにと母に何度も念押しし、恵比寿に向かったそうだ。その後、火勢が激しくなり、母は避難を決意する。

「引っ越し当初に、近所の人に教わった避難地の戸越公園とはまるで逆方向へぐんぐん歩いて行くんだ。(1923年の)関東大震災を生き延びたおふくろだから、風上の高台に逃げることが大切だとわかっていたんだね。戸越公園は戸越銀座に比べれば高いが地域全体では中腹。それに戸越銀座は風下だった」


地図を見ながら東京大空襲の経験を振り返った


大火災の風は激しく、まだ焼けていない家から瓦が吹き飛ぶのが見えたそうだ。その中で母は9歳の毒蝮さんの手を引き、可燃物がいきなり発火するような温度の熱風を正面から食らいながら歩き続けた。桐ケ谷駅近くの空き地まで逃げ、そこで一晩を明かしたそうだ。

「じゅうたん爆撃で戸越銀座はほとんど焼け野原だった。でも建物疎開で家を壊して火除け地をつくっていたから焼け残ったところもあって、境目があるんだね」

毒蝮さんの自宅も建物の強制疎開に遭い、住み慣れた荏原中延を離れて戸越銀座に移り住んだ先での空襲だ。毒蝮さんの母が慣れぬ土地で避難先を判断した機転が、紙一重で命を繋いだのだ。

「B29が520機の編隊で飛ぶさまは本当にすごかったよ。空が見えないくらいに飛んできて、雨あられのごとく焼夷弾を落としたんだ。低く飛んだ飛行機の操縦士の顔が見えて、笑いながら『あそこに落とせ』って言ってるようだったという人もいたね。それで日本の飛行機が飛んで行って体当りするのが見えるんだよ。地上から頑張れって手を叩いて応援した。でも体当たりした日本の飛行機が落っこっちゃうんだ、それでB29はなんともないんだよ」


「俺たちは死んじゃうからいいけれど……」


毒蝮さんと母の2人は多くの死傷者を目撃しながら避難し、近くの親類宅に身を寄せたが、翌5月25日には皇居周辺や城南地域が焼夷弾の雨を受け、同24日に2人が難を逃れた桐ケ谷駅周辺も燃えてしまう。この2日間の空襲が山の手大空襲だ。

「520機の戦闘機が来て爆撃したというのは、3月の空襲より多いんだ。でも焼失面積や死者は少ないから、語られることは少ない。数字が大きいほうばかりが語られる。そうやって多勢に巻き取られるってのは良くないと、(戦争で)国粋主義や全体主義が間違いだったことから学んだはずだよな。俺は江戸っ子で、弱い者に肩入れするし世間様の裏をいくのが好きだから、多勢じゃない話を正しく語っていきたいし、聞いていきたいね」



母の一瞬の判断をはじめ、偶然の積み重ねで命を繋いだといえる毒蝮さんの空襲体験。一つひとつの判断が、道を変えてしまう。

「焼夷弾の攻撃というのは(カーチス・)ルメイという米軍の参謀が指揮したものだ。『早く日本をやっつけろ』という命令があって、日本の家屋は木と紙でできているから爆弾よりも燃やしたほうがいいと開発したんだ。このルメイが佐藤栄作総理の時代に、日本を復興させたというんで表彰されて、当時怒った人がたくさんいた。そもそも日本の建物を焼失させた要因なんじゃないのかって。これは戦後、いかに日本がアメリカに左右されて生きてきたかという表れだと思う。被爆国なのに核兵器禁止条約に参加してないとかもね。その積み重ねが今、如実に出てきているだろう。本当に日本は独立しているのかってね」

毒蝮さんは、現在の情勢について危機感を語る。

「戦争を知ってる俺たちも、戦争はもう俺たちの時代には起こらないと思ってたわけ。戦後77年戦争放棄を保ってきてね。でも、ウクライナでああいうことが起きて、テレビに映って、地理的にも近いところで簡単に起こり得るじゃないかとわかった。その中で、内政にも異変が起きて、舵取りが難しいよ。外交をちゃんとやらなかったら日本は世界の孤児になってしまうよね。俺たちは死んじゃうからいいよ。でも、年寄りの話を聞いて、戦争は起こしてはいけないんだと知ってほしいよね」


インタビュー後編に続く


取材・文/宿無の翁
撮影/吉楽洋平