東京五輪で悲願の金メダル獲得を目指すU−24日本代表。全世界注目の戦いに挑んでいる彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 ここで取り上げる中山雄太は、中学時代からトップ下、ボランチ、DF、時にはGKも務めるなど、究極とも言えるほどのユーティリティ性を発揮していた。そして万能戦士は中学2年生の時に茨城県トレセンに選出され、キャリアを大きく変えるターニングポイントを迎える。

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 茨城県龍ケ崎市出身の中山雄太は、2009年に龍ケ崎市立愛宕中へ入学した。兄の影響で幼少期からボールを蹴り始め、小学1年生の時に地元の北文間スポーツ少年団に入団。サッカーの楽しさに取り憑かれた中山が、中学入学後にサッカー部に入部するのは自然の流れだった。

 愛宕中サッカー部の顧問を務めていた根本清史が、当時の中山を語る。

「ひと言で言うと“温厚”です。だから言っておとなしいとか、真面目過ぎることはなく、茶目っ気がありながらも周りをよく見ていましたね。小学校を出たばかりの中学1年生だと自分のプレーばかりをやろうとする子が多い傾向にありますが、雄太は常に全体を見ながら、自分で行くのか、他の子にボールを預けるのか、判断してプレーできる子でした」

 なかでも根本が鮮明に記憶している出来事がある。とある雨の日の練習、体育館でフットサルのボールを使用したミニゲームを行なった。そこで中山は先輩をドリブルで抜きにかかるが止められてしまい、思わず「あ、先輩、足が長い」とこぼした。

「雄太の想定では、小学生の時の感覚でボールを動かして抜けると思ったんでしょう。でも先輩は想定より足が長く、ボールに届いて止められてしまった。でも次のプレーから、雄太は修正してドリブルで抜いた。すでにそういう感覚を持ち合わせていて、面白い子だなと思いました」

 トップ下やボランチを主戦場に、DFだけでなく、時には経験の一環としてGKを務めた。起用されたポジションでそれぞれの面白さを見出し、中山は常にサッカーを楽しんだ。
 練習試合では、すでに上級生の中に入って起用されていた中山は、1年生ながら茨城県大会で中学の公式戦デビューを飾る。中学1年生が上級生の試合に出れば、物怖じしてプレーが萎縮してもおかしくない。ところが、中山はそんな感情とは無縁。むしろ「自分が上級生の試合に出て通用するか試してみたい」と出場に意欲的で、ピッチに立てば上級生顔負けのプレーを見せた。

「入部当初から雄太は学年を気にするよりも、自分がどれだけできるか試したい、もしくは試合の状況を見て『俺だったらやれるのに』と思う子でした。でも普段は謙虚で礼儀正しく、誰にでも優しい。ミニゲームをやっている時に、ゴールを外した先輩に対しても『先輩、そこ決めていこう!』というポジティブな声かけができるから、ミスをした選手も次への意欲が湧くし、チームのムードが悪くなりません。そういう子でしたから、学校生活で彼のことを悪く言う人はいなかったです」

 サッカー部で突出した存在だった中山は、中学2年生の時に茨城県トレセンに選出され、柏U-15との練習試合でキャリアを大きく変えるターニングポイントを迎える。対戦相手のCB、上島拓巳(現・柏)が当時の記憶を呼び起こす。
 
「茨城県トレセンと対戦して、試合は僕たちが勝ちました。でも相手の中にひとりだけずば抜けて上手い選手がいて、そいつにミドルシュートを決められました」

 その“ずば抜けて上手い選手”こそ中山である。出色の活躍で柏のアカデミースタッフの目を引きつけ、「彼は誰だ?」とスタッフの間で話題になった。トレセンでの好プレーによって、中山は柏U−15から誘いを受けるに至った。

 中学3年への進級時に愛宕中サッカー部から柏U−15へ籍を移したが、中山が頭角を現わすまでには若干の時間が必要だった。柏U―15加入後、ほどなくして中山は、足首の故障に見舞われてしまう。

「怪我をしていたので、高校2年生になるまでほぼプレーしていませんでした。だから雄太がどれだけやれる選手なのか分かりませんでした」

 そう話すのは当時柏U−18の監督を務めていた下平隆宏だ。中山がグラウンド脇で柏アカデミーのポゼッションサッカーを見つめながら「早くこの中でプレーしたいです」と下平に漏らしたこともあったという。
 プレーできず、メンタル的に厳しい時期だったとはいえ、外から柏アカデミーのサッカーを見ることは中山にとって決して無駄ではなかった。ほとんどの選手がU―12から在籍し、時間をかけて構築されたアカデミーのポゼッションスタイルと連係に、途中から加入した選手の多くが戸惑いを見せるなか、下平が「戦術眼が高く、頭の良い選手」と評する中山はチームメイトのプレーを凝視しながら、自分が入った時にはどういう役割を求められ、どういうプレーをすべきか、イメージを膨らませた。

「雄太は戦術理解度が高く、個の能力も完成されていました。体格的にも他の高校生に比べたら大きかったので、怪我が治って復帰してからはチームにスッと馴染んでいった印象があります」(上島)

 最後尾からパスをつなぐチームスタイルと、「左利きのセンターバックを置きたい」という下平の意向もあり、中山は最終ラインの中央に配置された。柏U−15への加入以降、長らく怪我に苦しんでいた中山は、戦列復帰を境に鮮やかな上昇曲線を描く。柏U−18でレギュラーポジションを獲得したばかりか、13年6月には高校2年生にしてトップチームに2種登録され、さらに同年8月には豊田国際ユース大会に出場するU−16日本代表メンバーにも名を連ねた。以降、世代別日本代表の常連となる。
 
 一方で、下平は中山に物足りなさも感じていた。謙虚で誰にでも優しく、中学時代には合唱コンクールで指揮者を務め、学級委員長も任されるなど周囲からの人望も厚い。人間性は非の打ち所がなかったが――。

「シン(中谷進之介/現・名古屋)と比べると寡黙で、コーチングがおとなしかったんです。人間性は間違いないんだけど、そこを突き破るようなリーダーシップがほしかった」

 そこで下平は、中山が高校3年生になると柏U−18の主将に任命した。上島、手塚康平(現・横浜FC)、大島康樹(現・栃木)、1学年下の伊藤達哉(現シントトロイデン)、2学年下の古賀太陽(現・柏)とタレントが揃った当時の柏U−18は、高円宮杯プレミアリーグEASTを制した。下平は「あのタレントをまとめてチームとして結果を出し、雄太も自信を付けたと思います」と内面での確かな成長を感じていた。
 試合によってはCB以外にもトップ下やボランチを任された。複数のポジションができるユーティリティ性は、愛宕中から柏U−18、柏のトップチーム、そしてズヴォーレでプレーする今でも、まったく変わらない中山の特長である。

「今回、オリンピックのメンバーに入った理由も、ボランチだけではなく、SBやCBもできるというユーティリティ性が評価されたと思うんです。監督からすれば、雄太みたいな選手はチームに絶対にいてほしい選手ですからね」(下平)

 柏でプロサッカー選手のキャリアをスタートさせ、現在は海外へ活躍の場を移した中山は、帰国して根本と顔を合わせた際に「中学時代の経験がベースになっています」「僕はレイソルに行ってよかった」と自分が歩んできた道のりが間違っていなかったことを話していたという。

 かつて中山は、“柏U−18出身”という肩書から「僕はエリートと言われることがありますが、まったくエリートではありません」と言っていた。ごく普通の少年団、ごく普通の公立中学サッカー部出身という経歴が理由らしいが、そんな自身のキャリアをむしろ誇らしげに、満面の笑みを浮かべて話していた表情が実に印象的だった。

<文中敬称略>

取材・文●鈴木 潤(フリーライター)

※サッカーダイジェスト2021年7月22日号から一部を加筆修正して転載。

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