6年連続最下位などBクラス常連だった黎明期

2022年、開幕直後に躓きながら猛烈な追い上げでヤクルトと優勝争いを演じたDeNA。最終的にはヤクルトに突き放され2位となったが、三浦大輔監督は球団(前身含む)生え抜きの監督として初のAクラス入りを成し遂げた。

そんなDeNAは過去にどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。前身球団を含めて、個性派ぞろいの歴代監督とその成績を振り返る。

DeNAの歴代監督"


1950年の2リーグ分立時、セ・リーグの球団として大洋ホエールズが誕生した。初代監督には渡辺大陸が就任。69勝68敗3分けの勝率5割超えを果たし、7チーム中5位の成績を残した。翌51年は“史上初の三冠王”中島治康が選手兼任で指揮を執ったが、成績不振で6月末に当時球団専務だった有馬義一に途中交代。前年を下回る6位に終わる。

1952年は小西得郎を新監督に迎え4位。翌53年に球団が松竹ロビンスと合併し、「大洋松竹ロビンス」に改称。引き続き小西がチームを率いたが、前年を下回る5位に終わり、この年限りで監督を退任した。54年には球団名を「洋松ロビンス」に再び改称。永沢武夫が新監督に就任したが、初の最下位に沈み、この責任を取り永沢は辞任した。

1955年、藤井勇が選手兼任で新指揮官に就任。前年オフに松竹が球団経営から撤退したため、球団名を初期の「大洋ホエールズ」に戻した。心機一転、再スタートを図ったが、31勝99敗の勝率.238で最下位。藤井は敗戦数、勝率ともにリーグワースト記録を残し、同年限りで辞任した。

1956年からは迫畑正巳が監督に就任した。3年間監督を務めたが、全て最下位に沈み58年限りで辞任。59年には森茂雄が球団社長と兼任で監督に就任。成績は6年連続となる最下位に終わったが、若返りを図るなどチームの土台作りに努めるとともに、次期監督の三原脩の招聘に尽力した。

三原脩が初優勝&日本一に導く

1960年、西鉄で常勝軍団を築き上げた名将・三原が監督に就任した。開幕から6連敗を喫し、苦しいスタートとなったが、すぐに「三原魔術」と呼ばれた選手起用が冴え渡る。巨人と優勝争いを繰り広げた末、前年の最下位から球団初のリーグ優勝を成し遂げた。日本シリーズでも大毎相手に4連勝し、日本一に導いた。

翌年は一転して最下位に沈んだが、三原は8年間指揮を執り、優勝1回、2位2回の好成績を残した。8年目の67年は4位に終わったため、成績不振を理由に辞任している。

1968年、三原の後任として近鉄で監督を務めた別当薫を招聘した。1年目こそ5位に終わったが、翌69年に5年ぶりのAクラスとなる3位に入ると、71年まで3年連続で3位に。だが、72年は開幕から低迷し、シーズン途中で休養。ヘッドコーチを務めていた青田昇が監督代行を務めた。

1973年、将来秋山登を監督にしたいという球団の意向を受けて、青田昇がそのつなぎとして監督に就任。しかし、前年と同じ5位に終わり、成績不振の責任をとって同年限りで監督を辞任した。翌74年は宮崎剛が青田同様つなぎ役として監督を務めたが、5位に終わり1年限りで退任となった。

1975年、秋山が満を持して監督に就任。主戦投手として1960年の優勝に多き貢献した秋山は、チーム生え抜き投手として初の監督就任となったが、初年度は球団4年連続となる5位に終わる。さらに、翌76年は15年ぶりの最下位に沈み、同年限りで監督を辞任した。

1977年からは別当薫が2度目の監督に就任したが、1年目は最下位に終わる。翌年、球団は川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移転して球団名も「横浜大洋ホエールズ」に。この年は順位こそ4位だったが、64勝57敗9分けで7年ぶりの勝ち越しに成功した。そして、3年目の79年に8年ぶりのAクラスとなる2位と躍進し、この年限りで監督を退任。翌年から球団代表に就任した。

名将・古葉竹識を招聘も低迷期脱せず

1980年、前年ヘッドコーチを務めていた土井淳が監督に昇格。現役時代は捕手として強肩と高い守備力を誇り、三原監督から「グラウンドの指揮官」と呼ばれるほど絶大なる信頼を得ていた。秋山以来の生え抜き指揮官として20年ぶりの優勝も期待されたが、1年目は4位、2年目は最下位と結果を残すことはできなかった。

1982年、関根潤三が新監督に就任。初年度は5位に終わるが、2年目の83年に勝率5割で4年ぶりのAクラス3位に入る。しかし翌84年は最下位となったため、この年限りで辞任した。

1985年、近藤貞雄が新指揮官に。高木豊、加藤博一、屋鋪要の「スーパーカートリオ」を結成し注目された。だが、チーム成績は2年連続4位と振るわなかったため、86年限りで退任した。

1987年、広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に招聘した。コーチ陣も広島時代の人材で組閣したが、チーム成績は低迷。3年間で5位、4位、最下位に終わり、監督を辞任した。

1990年、2年間二軍監督の経験があった須藤豊が新監督に就任した。1年目に球団7年ぶりとなるAクラスの3位入り。だが、翌91年は5位、92年は開幕から低迷してシーズン途中で休養となった。ただ、「最も優れた投手がストッパー(抑え)を務めるべきである」という思想のもと、当時2年目の佐々木主浩を抑えに抜擢。後の「ハマの大魔神」誕生のきっかけを作った。

1992年のシーズン途中、須藤監督の休養によりヘッドコーチの江尻亮が監督代行に。その後、須藤の退団が決まり正式に監督に就任した。5月3日から指揮を執り、最終的な順位は5位だったが、自身の勝率は5割と健闘。球団内では翌年も監督に推す声があったが、辞退して退任した。このオフにチームが「横浜ベイスターズ」に改称したため、大洋最後の監督となった。

権藤博が8年ぶりのリーグ優勝、日本一へ

1993年、「ベイスターズ」の初代監督となったのは近藤昭仁。現役時代は大洋一筋で小技が得意な選手だったこともあり、バント、スクイズを多用し緻密な野球を追及した。だが、チーム成績は3年間で5位、最下位、4位と全てBクラスに終わり、95年限りで退任した。

1996年、前年まで一軍バッテリーコーチを務めていた大矢明彦が監督に昇格。1年目は5位に終わるが、2年目は「マシンガン打線」を擁し、7年ぶりのAクラスとなる2位の好成績を残す。ただ、球団側とコーチ人事で折り合わず、この年限りで監督を辞任した。

1998年、前年の一軍バッテリーチーフコーチだった権藤博が監督に就任。当時すでに60歳で、監督初就任時の年齢としては史上最年長だった。1年目に大魔神・佐々木を中心とする投手陣とマシンガン打線がかみ合い、チームを38年ぶりのリーグ優勝に導く。さらに、日本シリーズでも西武を4勝2敗で下し、日本一に輝いた。その後も2000年まで監督を務め、いずれもチームはAクラス入りを果たし、惜しまれつつも勇退した。

2001年、西武を8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた森祇晶が監督に就任。権藤監督の放任主義から一転して管理主義をとった。だが、初年度こそ3位に入ったが、2年目は正捕手の谷繁元信が中日にFA移籍した影響もあり、開幕から低迷。シーズン途中で休養を余儀なくされ、02年限りで監督を解任された。なお、ヘッド兼打撃コーチの黒江透修がシーズン終了まで監督代行を務めている。

2003年、球団生え抜きの山下大輔が新監督に就任した。1年目は現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスや、ダイエーからFA宣言した若田部健一を獲得するなど大型補強を敢行したが最下位に。45勝94敗の勝率.324で、ドラフト制導入後の球団史上最低勝率を記録した。2年目も成績を残すことができず、2年連続最下位に終わり、監督を退任した。

2005年、現役時代に中日、ロッテのエースとして活躍した牛島和彦が監督に就任。1年目から3年連続最下位のチームをAクラスの3位に導く。しかし、翌06年は最下位に終わり、その責任を取る形で監督を辞任した。

DeNAとして初の優勝、日本一託された三浦大輔

2007年、大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。しかし、1年目は4位で終えたものの、2年目は最下位に沈む。さらに、3年目の09年は開幕6連敗を喫するなど序盤から低迷し、5月18日に大矢監督の無期限休養が発表。二軍監督の田代富雄がシーズン終了まで監督代行を務めた。

2010年、前年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫が監督に就任した。「アナライジング・ベースボール(分析野球)」を掲げ、チームの改革を図ったが、1955年以来球団55年ぶりの95敗を喫するなど最下位に終わる。2年目も成績を残せず2年連続最下位となり、11年限りで解任された。

2011年オフ、オーナー会社が株式会社ディー・エヌ・エーに変わり、球団名も「横浜DeNAベイスターズ」に変更。イメージ刷新を図り、新監督には現役時代巨人で活躍した“絶好調男”中畑清を招聘した。サービス精神旺盛な振る舞いで人気を呼び、ファン獲得に貢献。ただ成績は上向かず、4年間監督を務めて最高順位は5位と振るわず、15年限りで監督を辞任した。

2016年、球団OBでもあるアレックス・ラミレスが新監督に就任。前身含め球団初の外国人監督が誕生した。現役時代、外国人選手として初の2000安打を達成した名打者は、監督としても非凡な才能を見せる。就任1年目から11年ぶりのAクラスとなる3位に入り、チームを球団初のクライマックスシリーズ(CS)へと導く。

2年目も3位で連続Aクラス入りを果たすと、CSも勝ち抜き19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした。日本シリーズではソフトバンクに2勝4敗で敗れている。3年目は初のBクラス4位に終わるが、4年目の19年には2位に入り、初めてCSの本拠地開催を勝ち取った。翌20年は4位に終わったため、同年限りで退任となった。

2021年、前年二軍監督を務めていた三浦大輔が新指揮官に就任。球団生え抜き監督として大きな期待を背負って船出したが、開幕から躓き新人監督ワーストタイの6連敗。その後もチームは低空飛行が続き、1度も貯金を作れないまま6年ぶりの最下位に沈んだ。

だが、2年目の22年は前述したとおり、生え抜き監督として初のAクラス入りを果たした。2023年も指揮を執ることが決まっている三浦監督。次なる目標、1998年以来のリーグ優勝、そして日本一を目指して突き進む。

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