プロ野球「最後のPL戦士」へ。ドラフト候補・中川圭太の溢れる思い

プロ野球「最後のPL戦士」へ。ドラフト候補・中川圭太の溢れる思い

 2015年春、東洋大学に入学したばかりの中川圭太(二塁手)は練習しているとき、PL学園、東洋大と自分が歩んでいる道の先輩である今岡誠(現・真訪/ロッテ二軍監督)が高橋昭雄監督(現・総監督)のもとへ訪れていると聞いた。

 中川は小学生の頃に阪神ファンの親戚に連れられ、甲子園のスタンドから今岡を応援したことを覚えている。今岡はしびれるような状況の中、ファンの「打ってくれ」という思いに応えてヒットを重ねていた。大学時代は日本代表の一員としてアトランタ五輪に出場し、プロでも偉大な実績を残した今岡のような選手になりたいと、中川は思っていた。

 中川があいさつに向かうと、目の前に憧れの先輩が立っていた。

「60期生の中川圭太です」

 中川はそれ以上の言葉を発しなかった。PL学園の野球部員は、あいさつするときに自分が何期生であるかを言う。また伝統として、後輩からあいさつ以外の言葉を発することはない。中川の言葉を借りると、「後輩から話しかけるなんて畏(おそ)れ多い」ため、先輩から話し始めるのを待つ。

 今岡は新入生の中川に、丁寧な口調でこう話した。

「高橋監督に学ぶことでさらに成長できると思うよ。僕はここでの4年間が財産になっている。これからの4年間、しっかりと野球に取り組んで財産にしてください」

 4年生になった中川は、その時の言葉を今でも反芻(はんすう)するという。

「大学野球は高校までとはまた違う厳しさがあります。最初はついていくだけで大変でしたが、それでも昨年は自分自身で成長を感じられるようになってきました。日米大学野球やユニバーシアードでも大学日本代表として試合に出られて、中学以来の代表選出は自信になりました」

 中川は小学1年のときに地元(大阪)の尾崎ボーイズで野球を始めた。中学生になり泉佐野リトルシニアに入団すると、全国大会に出場するなど実績を重ね、中学3年のときにAA世界野球選手権の日本代表に選ばれた。

 その日本代表には、淺間大基(日本ハム)、立田将太(日本ハム)、田嶋大樹(オリックス)など、のちにプロ入りする選手もいた。

「みんなレベルが高かったですが、なかでも淺間や立田、田嶋は別格でしたね。こういう選手がプロに行くんだろうって思っていました。世代トップの野球を知ることで、甲子園に出たいと強く思うようになりました」

 中川が進学先に選んだのはPL学園だった。当時のPL学園は、中川が入学する2012年の3年前、2009年には春夏連続出場を果たすなど力を見せていた。しかし、当時すでに大阪の覇権は、大阪桐蔭や履正社へと移りつつあった。

 そんな状況のなかで、中川は泉佐野リトルシニアの田中和人監督にPL学園を勧められた。田中監督は松井稼頭央(西武)と同級生で、高校3年のときは4番を打っていた人物だ。

「田中監督から『もう一度、PL復活のために行ってくれないか。中川ならできる』と言われました。父も子どもの頃に(桑田真澄、清原和博の)KKを見ていた世代なので、大阪の高校ならPLだろうという感じで……。それで実際に試合を観に行くと、PL学園の選手たちの動きが格好よかった。PLから甲子園を目指そうと決めました」

 だが、なかなか歯車がかみ合わなかった。1年の秋は大阪桐蔭に4−13とコールド負け。その後、部員の不祥事が発覚する。翌年春の大会を辞退し、夏も出場停止となってしまった。

「さすがに最初は気が滅入りました。甲子園に行くためにPLに入ったのに、何をやっているのだろうって……」

 AA日本でともにプレーした仲間たちは、次々に結果を出していった。2年春には立田が大和広陵(奈良)で、夏には淺間が横浜高の一員として甲子園の土を踏んだ。一方で中川はどんなに練習しても試合ができない。ただ、そんな厳しい状況のなかでも気持ちが切れることは一度もなかった。

「PLのグラウンドにいるのは、僕たち現役の選手だけです。でも、OBの方たちの存在は練習中でも常に感じていました。そのような空気のもとで練習を重ねることで、PLの伝統や誇りが育(はぐく)まれます。代々の選手が積み上げてきたPL学園の伝統を、僕たちが汚(けが)すわけにはいかない。試合ができない間も、やるべきことは変わりません。選手ひとりひとりがそのことをわかっていたから、迷いはありませんでした」

 2年の秋、鬱積した思いを一気に発散するかのように、中川たちは大阪大会を勝ち進む。7試合のうち、4試合連続を含む5試合のコールド勝ちを記録。決勝こそ履正社に3−4で敗れたが、近畿大会出場を果たした。

 ここで好成績を残せば、翌年春に開催されるセンバツ大会出場の可能性もあったが、PLは1回戦で福知山成美(京都)に敗れ甲子園は絶望となった。

 そして最後の夏は、大阪大会決勝まで進みながら、またしても大阪桐蔭の前に1−9と打ちのめされた。中川たち60期生の高校野球は終わった。

 結局、目標としていた甲子園出場はかなわなかった。そして秋にはプロ志望届を提出するも、ドラフトで指名されることはなかった。それでもPL学園に入ったことは間違いではなかったと中川は断言する。

「公式戦に出られなかったこともありましたし、監督不在という状況で主将である僕が投手交代や代打の決断をしなければならなかった。たしかに、普通の選手よりやるべきことは多かったと思いますが、その分、ほかの高校生では学べなかったことを多く学べたことは間違いありません。PLでの3年間は、僕にとってはなくてはならない時間でした」

 東洋大に入学してからも中川はバットを振り込んだ。2年から東洋大の強打者の証(あかし)である背番号”8”を背負った。3年になると東都大学一部リーグで春秋を連覇し、両シーズンでベストナインに選出。その頃から偉大な先輩である今岡と重ね合わせられることが多くなってきた。周囲のざわめきに「今岡さんの技術は凄すぎます。レベルが全然違います」と、中川は苦笑する。

「でも、比較されるということは『もっとレベルアップしろよ。いつか今岡を超えろよ』という期待を込めていただいているからだと思うので、非常に光栄です。ただ、”今岡二世”と言われながら結果を残せないと、今岡さんの顔に泥(どろ)を塗ってしまうことになるので、そのプレッシャーは常にあります。昨年は代表にも選ばれて結果も少しずつ出てきました。今年は結果を確実なものにして、期待に応えなければいけない1年だと思っています」

 今年の目標は、昨年成し遂げられなかった全国制覇を達成し、首位打者、MVPを獲ること。そして今度こそ、堂々とドラフトで指名されることだ。中川の大学最後の1年が始まった。

関連記事

webスポルティーバの他の記事もみる
主要なニュースをもっと見る
社会のニュースをもっと見る
経済のニュースをもっと見る
政治のニュースをもっと見る
国際・科学のニュースをもっと見る
エンタメのニュースをもっと見る
スポーツのニュースをもっと見る
トレンドのニュースをもっと見る
生活術のニュースをもっと見る
地域のニュースをもっと見る

スポーツ アクセスランキング

ランキングの続きを見る

スポーツ 新着ニュース

新着ニュース一覧へ

総合 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

東京 新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

東京 コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る

記事検索