野村弘樹はヒジ手術をビデオ撮影。「ノミみたいな器具で骨を削られた」

シリーズ「もう一度投げたかった」──野村弘樹(前編)


1998年の日本シリーズ第1戦で勝利を挙げた野村弘樹

 高校時代、PL学園の背番号1を着けて甲子園で春夏連覇を果たした野村弘樹。高校卒業後に入団した横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)では1年目から一軍マウンドを経験した。

 すぐに先発ローテーション投手となり、1993年には17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。1998年には13勝をマークし、チームの38年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献している。しかし、翌年春のキャンプで左ヒジを痛め、手術を行なった。

 手術後も消えない痛みに耐えながら、マウンドに上がり続けた野村は、その苦しみのなかから何を学んだのか。

――野村さんは、1987年に甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園のエースでしたが、プロに入るまでに肩やヒジを痛めたことはありましたか?

野村 僕は子どもの頃も、高校時代も、プロ野球に入ってからも、肩やヒジを痛めたことはありませんでした。少しの張りや痛みがあっても投げられましたね。高校時代に甲子園でたくさん投げたことが故障と関係あるかと聞かれたら、僕は「ない」と答えます。僕よりも多く投げた人はいるし、痛みが出ない人もいるから。

――初めて利き腕に異変を感じたのはいつですか?

野村 1999年の春季キャンプです。38年ぶりのリーグ優勝、日本一を果たした翌年でした。毎年、疲労もあって、シーズン始めと終わりではヒジの状態が違う。終わり頃はちょっと曲がってくるので、それをオフの間に鉄アレイなどを使って伸ばしながら鍛えていました。

 優勝したあとのシーズンオフも同じように過ごしていて、自主トレまでは問題なし。でも、キャンプで投球練習をすると、左手の感覚がなくて、前腕がやけに張る。ブルペンで投球練習をするたびに「おかしいな」と思っていました。よく調べてみたら、ヒジに水が溜まっていたんですよ。

――そのように水が溜まったことも、それまではなかったんですね?

野村 ありませんでしたね。ですからその時も「あれっ」と思いはしたんですが、それほど大ごとだとは思いませんでした。違和感を覚えながらも練習を続けて、オープン戦では登板せず、水を抜きつつ様子を見ていました。

――ベイスターズが歓喜に沸いた1998年、野村さんは28試合に登板し、13勝8敗、防御率3.34という成績でリーグ優勝に貢献しました。西武ライオンズとの日本シリーズでは初戦と第4戦に先発登板しています(1勝1敗)。そのシーズンの投球回数は177回と3分の2でしたが、ずっと先発投手を務めてきた野村さんにとって、特別に多いイニング数というわけではありませんでした。

野村 自分では疲労も感じていませんでした。99年も痛いくらいで投げないわけにはいかないので、テーピングやサポーターをヒジに巻いてガチガチに固めて投げてみたのですが……ヒジに水が溜まって膨らんでいるから、手先がグニャグニャしている感じで、自分の腕とは思えなかった。

 感覚にズレがあって、腕を振ることなんかとても無理。ほかのピッチャーだったら投げられなかったかもしれません。でも、僕には「どうしても投げないといけない」という使命感があって、溜まった水を抜いては投げることの繰り返し。結局は、その場しのぎにすぎませんでした。

――野村さんは5月にヒジの手術に踏み切りましたね。

野村 ピッチャーからすれば、「ネズミ」と言われる骨棘(こつきょく)が出てくるのは仕方がない。問題は、それが遊離するかどうか。僕の場合は遊離して、骨棘も出てという感じで、取らないことにはとても投げられないということで手術をしました。

 手術を受ける時にはビデオカメラで撮影してもらいました。自分のヒジにメスが入る様子を確かめたかったからです。僕は全身麻酔されていますから、もちろん何もわからない。あとで手術の様子を見ましたが、ドクターが使っていたのはメスじゃなくて、ノミみたいでした。大工さんが使う道具と一緒です。それで飛び出た軟骨を取ってもらいました。手術のあと、その軟骨をホルマリン漬けにして家に置いていましたよ。

――手術のあとはリハビリですね。回復具合はどうでしたか?

野村 リリーフエースの佐々木主浩さんも同じ日に手術しましたが、佐々木さんはすぐにリハビリを始めて鉄アレイでガンガン練習してるのに、僕の回復は遅くて、ヒジの腫れが全然引かなくて……。
 
――野村さんにとって、初めての大きな手術でしたから、不安はあったでしょうね。痛みの原因を取り去ることさえできれば、今まで通りに投げられると考えていたと思いますが。

野村 手術前の状態では元通りに投げることは難しかった。でも、「手術さえすれば」という思いはありました。肩の故障なら無理かもしれないけど、ヒジを痛めても手術をすればまた投げられるだろうと。

 でも、手術をしても痛みが取れることはありませんでした。ずっと痛いまま。手術した年の秋季キャンプでも、朝起きた瞬間からやっぱり痛かった。僕はもともと右利きで、野球とゴルフ以外は左手を使わなくても生活に支障はないんですが、それでもストレスを感じました。左ヒジが痛いので、自然な動作ができない。顔を洗うことも、ドアを開けることも。特にドアの開け閉めは嫌でした。

――痛みはいつ頃なくなりましたか?

野村 結局、痛みは残ったままでした。手術から半年が経っても左ヒジは痛くて。「いつ投げられるようになるか」と心配する前に、「痛みが取れるのか」という不安のほうが大きかった。痛みがなくならない限り、普通に投げられるようにはなりませんから。全然痛みが取れないので、痛み止めを飲みながら練習していました。

 手術から半年を経過した時の痛みを10としたら、一番コンディションがいい時でも6か7くらいまでしかよくならなかった。ドクターには「もう問題ない」と言われたんですが、ずっと痛かった。だから、手術のあとはバッターと勝負したことがありません。いつも、自分の体と戦っていました。そのうち、ヒジはまっすぐ伸びなくなり、曲がらなくなりました。2002年限りで引退することになるんですが、最後の3年間はずっと苦しかったですね。

(つづく)


■野村弘樹(のむらひろき)

1969年、広島県生まれ。1987年ドラフト3位でPL学園から横浜大洋ホエールズに入団。プロ3年目の1990年に11勝をマーク。1993年には17勝を挙げ最多勝投手に輝いた。1998年に13勝でチームの38年ぶり優勝、日本一に貢献したが、1999年に左ヒジを手術した。2001年に通算100勝を達成したが、2002年に左ヒジの状態が悪化し、現役を引退。その後、ベイスターズのコーチをつとめ、現在は野球解説者として活動している。2015年2月から桜美林大学硬式野球部の特別コーチも務めている。

◆大学選手権で唯一の国立・広島大は、なんで全国大会に出るほど強いのか>>

■「もう一度投げたかった」石井弘寿編はこちら>>

■「もう一度投げたかった」斉藤和巳編はこちら>>

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