【イップスの深層】「内海哲也以上の逸材」が歩んだ転機までの軌跡

【イップスの深層】「内海哲也以上の逸材」が歩んだ転機までの軌跡

連載第17回 イップスの深層〜恐怖のイップスに抗い続けた男たち
◆証言者・森大輔(1)

 横浜ベイスターズの高浦美佐緒(みさお)がその高校を訪ねたのは、スカウトになってから初めてのことだった。

 石川県の県庁所在地・金沢市から北へ約70キロ。能登半島の中央部に七尾(ななお)市はある。その市内の工業高校を高浦は訪れていた。甲子園に出たこともなければプロ野球選手を輩出したこともない、ごく普通の公立工業高校だった。

 もう練習が始まってもおかしくない時間帯なのに、グラウンドには誰もいない。いや、よく見ると、ベンチに寝転んでいる男子生徒がいた。

 高浦はその生徒に近づき、こう尋ねた。

「野球部の練習場所はここでいいのかな?」

 生徒は寝転んだまま「そうです」と答えた。見知らぬ大人を前にしても、堂々と横になったまま応対する生徒に、高浦は「いかにも田舎の高校生らしいなぁ」という印象を抱き、内心苦笑していた。そして、高浦はその生徒との会話を続ける。

「野球部の練習はこれからかな?」

「たぶん、そろそろみんな来ると思いますよ」

「そうか……。ところで、野球部に森くんっているよね?」

「あ、森は僕です」

 高浦は「えぇっ!」と仰天した。この不遜な態度をとる男子生徒こそ、高浦のお目当ての選手だったのだ。

 この出会いから18年の時間が過ぎた。高浦はその後、楽天、DeNAのコーチを経て、65歳になった現在は学生野球の指導者資格を回復し、高校、大学の臨時コーチを務めている。10数年にわたるスカウト生活のなかでもっとも思い出深い選手を聞かれると、高浦はいつも決まってこう答える。

「森大輔という投手がいましてね。内海哲也(巨人)と同じ学年なんですけど、このピッチャーは本当にすごかった。私は内海よりも断然、森の方が上だと思っていました」

 そして、ため息を漏らしながら、こう付け加える。

「森には悪いことをしました。なんとか力になってやれなかったのか……と、今でも悔いが残ります」

 森大輔はイップスによって野球人生を狂わされ、そして選手生命を奪われた野球選手だった。

 現在、郷里の七尾に戻っている森を訪ねた。現役時代よりも一回り恰幅(かっぷく)のよくなった森は、にこやかな表情で迎えてくれた。

「日本海でとれる魚は身が引き締まっていて、一味違うんです。ぜひ食べていってください!」

 しかし、森に高浦の言葉を伝えると、森は「えっ、本当にそんなことを言ってたんですか!」と驚いた後、表情を曇らせた。

「高浦さんがそんなことを思ってくれていたなんて……。僕はむしろ、高浦さんに申し訳ないと思って生きてきたんです。高い評価をいただいたのに裏切ってしまった。高浦さんは僕のことなんて思い出したくもないだろう、恨まれて当然だと思っていました。僕は今でも高浦さんのお名前を見ただけで、『申し訳ない』という感情が湧いてくるんです」

 森が実際にマウンドで投げている姿を見たことがある野球ファンは、どれくらいいるのだろうか。高校は能登半島の無名校、社会人は名門チームだったとはいえ、実質2年しか投げていない。そしてプロでは、二軍でもほとんど登板がなかった。

 野球に詳しいファンでも「名前は知っているけど、プレーは見たことがない」という人がほとんどではないだろうか。

 幻の逸材は「僕が経験したことが次の世代につながるなら」と、その歩んできた野球人生を語り始めた。

 森が野球を始めたのは、小学3年生のときだった。とりたてて理由があったわけではない。父親から「なんでもいいからスポーツをやれ」と厳命され、たまたま目に入った野球チームに入団しただけだった。

 小学4年時に初めて試合に出場すると、ライトのポジションでフライを後ろに逸(そ)らす大失敗、俗に言う「バンザイ」を犯した。しかも、1試合で2度も。試合後、こっぴどく指導者に怒られた森は涙を流しながら思った。

「ちゃんとやらないとアウトは取れないんだ」

 不思議なことに、森はこの出来事がきっかけで野球が好きになったという。それからは人が変わったように練習に取り組むようになった。

 守備には難があったが、もともとコントロールはよかった。野球を始める前から、地面に置いた空き缶に石をぶつける遊びをしていたことがよかったのかもしれない。森は投手を任されるようになり、小学6年時にはエースで4番打者になっていた。

 しかし、中学は「腐っていました」と本人が振り返るように、何もいいことがなかった。

 中学の軟式野球部に入ったが、両ヒジ、両ヒザの成長痛でまともに動けない。それなのに周囲からは「仮病」と見なされ、指導者もまともに取り合ってくれない。そんな状態で10キロの走り込みを課せられ、同級生からはイジメにあった。「筆箱に残飯を入れられたりしましたね」と森は明かす。勉強もまるでできなかった。

 心身ともに塞(ふさ)いでいた中学では控え投手。当然、強豪からの誘いもなかった。地元に志望校があり、その野球部の監督に入りたいと希望を伝えると「野球と勉強、どっちを取る?」と聞かれた。正直に「野球です」と答えると、「ならウチより七尾工業がいいよ」と言われた。体よく断られたのだ。

 誰からも求められることなく中学3年間を終えた森の運命が変わったのは、七尾工業に入学してからのことだった。

(つづく)

※「イップス」とは
野球における「イップス」とは、主に投げる動作について使われる言葉。症状は個人差があるが、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが、自分の思うように投げられなくなってしまうことを指す。症状が悪化すると、投球動作そのものが変質してしまうケースもある。もともとはゴルフ競技で使われていた言葉だったが、今やイップスの存在は野球や他スポーツでも市民権を得た感がある。

著者:菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro


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