橋上秀樹のコーチングの原点は、野村の教えと「4年間の接客業経験」

橋上秀樹のコーチングの原点は、野村の教えと「4年間の接客業経験」

【連載】チームを変えるコーチの言葉〜
埼玉西武ライオンズ 作戦コーチ・橋上秀樹(4)

 西武の作戦コーチを務める橋上秀樹は、現役時代から数えて12年間、野村克也の薫陶を受けている。

 初めての出会いはヤクルトでプレーしていた1990年。東京・安田学園高からドラフト3位で入団して7年目、アメリカはアリゾナ州ユマで行なわれた春季キャンプの時だった。

 同年に野村が監督に就任したのだが、ほかの監督と違ってミーティングではまったく野球の話が出ない。代わりに人生観や仕事観を説いていくなか、選手たちに一番求めたのが「変化すること」だった。実際、野村のひと言によって変化した橋上が当時を振り返る。

「私は17年間、現役を続けられたんですけど、なにがそこまで続いた原因か。それはもう、いろんなコーチの方に指導を受けたこともありますが、もっとも残っているのが、野村さんに言われた『己を知れ』という言葉なんです。『自分がどういう駒だったら、野球選手として生き残っていけるかをしっかり考えなさい』と。言われなかったら、たぶん、みんなと同じような練習しかしてなかったでしょうね。それでは自分の存在価値は見い出せなかったと思うんです」

 プロ入り後に捕手から外野手に転向した橋上は、5年目の88年に一軍初出場。翌89年には42試合に出て打率.346、1本塁打、4盗塁と結果を出した。

 直後に野村の監督就任が決まり、「監督が替わって使われなくなったらどうしよう」と心配していたなか、案の定、90年は出番が半減。ただ、変化のきっかけは監督から直に授かることになる。ある日の試合前、バッティング練習中に野村に呼び止められ、こう言われた。

「王はバットを一握り余らせて868本打った。オレは二握り余らせて657本打った。お前さんはバットを目一杯に持っているけど、これまで何本ホームラン打って、これから何本打つんだ?」

 目の前にいる監督はもとより、王貞治を引き合いに出されて橋上はハッとした。それまで、バッティング練習ではただ気持ちよくスタンドに放り込むだけだったのが、すぐさまグリップを二握り上げ、ミート中心に打ち返すことにした。

 最初は「監督に言われた通りにバットを短く持たないといかんな」という気持ちしかなかったが、打ち続けているうちにしっくりきた。

「短く持ったことによって、バットの操作性が私にはよかったんです。結局、バットコントロールがよくなる、ミート率が上がる、止まらなかったハーフスイングが止まるようになる。すると三振だったものがフォアボールになる、塁に出ることによって盗塁ができる。となれば、チームにとって作戦が立てやすくなる、というところにつながっていったんですね」

 もっとも、バッティングを変えただけでは生き残れない。当時のヤクルト外野陣は飯田哲也、秦真司、荒井幸雄の3選手でほぼ固まっていた。特にセンターを守る飯田は監督の信頼も厚く、まずスタメンを外されることがない。すると必然的に、橋上のライバルは秦と荒井になる。

 この両選手よりも自分が上回る部分はなにか、考えてみた結果、右打者として「左ピッチャーに絶対的に強くなる」ということが思い浮かんだ。

「秦さんも荒井さんも左の好打者で、対右ピッチャーの打撃力では到底、及ばない。私は右ピッチャーのスライダーが苦手だったんです。そのかわり、左ピッチャーに対して私は強さがあって、秦さんと荒井さんに比べれば守備、走塁に不安がなかった。ならば、対左のバッティングに守りと、足はふたりよりも抜けて高めようと。要は、それまでやっていなかった自己分析をやって、初めて己を知ったことで、ポイントを絞って徹底的に練習できたんです」

 客観的にチーム構成を見て戦力の不足部分を把握し、ライバルとの比較で優劣を見定める。そうして己を知った橋上は92年、自己最多107試合に出場し、同年の西武との日本シリーズでも活躍。

 その後、1997年に日本ハムに移籍したが、3年間で自由契約となった。すると、1999年から阪神監督に就任していた野村に請われ、2000年に移籍。一軍出場は果たせずに同年限りで引退するも、のちに楽天で監督とコーチの関係になる両者の原点と言えなくもない。

 ただ、橋上自身は引退後しばらく、野球とは無縁の世界にいた。ゴルフショップの経営に勤しんでいたのだ。

「商売するのも難しいと言われる関西圏で、店長として店に出て、接客をしていました。別にこちらに非がなくても、お客さんにクレームをつけられたら『申し訳ありませんでした』って、平謝りしないといけない状況が少なくなかったですね」

 店は甲子園球場からほど近い場所にあり、現役当時に副業として始めていたものが本業になった。当初は客商売の難しさを感じていたが、次第に相手が見えるようになったという。

「平謝りといっても、謝っているばかりではいつまで経っても話が終わりません。だんだんと、うまく相手の気持ちをなだめていくような、話の持っていき方が必要だとわかりました。あるいは、品物をお客さんに勧めるときにも、話の持っていき方が大事だと。たとえば、常連さんなら比較的、強めに押しても大丈夫。逆に、そうでない人は押しちゃダメだとか」

 店の経営が軌道に乗った2004年の秋。ヤクルト、阪神時代にコーチだった松井優典(まさのり)に誘われ、橋上は楽天の二軍外野守備・走塁コーチに就任した。新規参入球団の楽天には近い将来、野村を監督に招聘したい意向があり、二軍監督に就任した松井とともに”野村野球”を理解する人材として白羽の矢が立ったのだった(同年シーズン途中に松井とともに一軍コーチに昇格)。

 そして2006年に野村が監督に就任すると、橋上は07年からヘッドコーチとして”野村野球”を支えていく。そのときに大いに生かされたのが、4年間にわたる接客業の経験だった。

「選手はみんな個性があります。何事も一度に、全員にしっかり伝えるのは難しいものです。そこで個別に、この選手には少し話を多めにとか、この選手にはあまり言わずに、逆に聞きたいと思わせるように、とか。強弱、メリハリをつけられたのも、接客業の経験が生きたと思うんですね。だから、あの4年間がなかったら、私は長くコーチをできなかったと思いますし、そもそも球界に復帰することもなかったんじゃないか、と思います」

 右腕として野村を支えた楽天でも、打者から絶大の信頼を得た巨人でも、橋上は”接客業仕込み”の個別ミーティングで成果を挙げた。成果は戦略コーチを務めた2013年WBC日本代表チームに通じ、そして現在の西武の攻撃力につながっている。野球界では決して得られない経験が、各チームで選手の意識を変えることに役立ってきた。

「その選手に眠っている能力があれば、目覚めさせてあげる。それが私のいちばんの仕事かな、と思います。もともと持っている能力は高いわけですから、プロ野球に入ってきた以上は……。ただ、そのなかで一流になっていく選手と、そうでなくなる選手と、その境はなにかというと、運とかケガもありますけども、やっぱり意識の問題。自分自身を、己のことをどれだけ理解できるかだと思っています」

つづく

(=敬称略)

著者:高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki


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