西武もヤクルトも好機で代打なし。打席に立つ両エースが背負った信頼

西武もヤクルトも好機で代打なし。打席に立つ両エースが背負った信頼

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(10)

【同級生】西武・石井丈裕 後編

◆石毛宏典のアドバイスから生まれた奇跡の一打

――1992年日本シリーズ第7戦、ライオンズの先発は石井丈裕さん、対するスワローズはシリーズ3度目の登板となる岡林洋一投手でした。そこまでシリーズ2完投の岡林さんのピッチングはどのようにご覧になっていましたか?

石井 「よく中3日で投げられるな」と思っていましたね。僕はこのとき中4日でしたけど、当時ですら中5日、中6日が当たり前でしたから。中4日で投げるというのは、何て言うのかな……、時差ボケの中で投げるような感じなんです。まったく体が動かないんですよ。一日中、ボーッとしている感じですから、中3日だともっと体が動かないと思うんです。だから、岡林くんは気力で投げていたんじゃないですかね。

――この試合は石井さん、岡林投手の白熱した投手戦となりました。ぜひ伺いたいのは、0−1のビハインドで迎えた7回表、ライオンズの攻撃。2アウト1、2塁の場面で打席に入ったのが石井さんでした。石毛(宏典)さんは「この場面が忘れられない」と言い、伊原(春樹)さんは「この場面はタケを交代させることはできなかった」と言っていました。

石井 僕自身も、「代打かな?」と思っていましたけど、チームからの信頼を感じられたのはすごくうれしかったですね。正直なことを言えば、「打てないよ」って気持ちのほうが先に立ったんです。そのときに、ベンチの石毛さんから呼ばれて、「タケ、バッティングも気持ちだからな」って言われて、必死でボールに食らいつきました。あのひと言がなかったら絶対に打てていなかったと思うし、一生忘れられない言葉です。

――まさに、石毛さんもこの場面のことを熱く語っていました。石井さんの打球は、センターを守っていた飯田哲也選手のグラブをかすめてタイムリーヒットとなりました。

石井 石毛さんの言葉がなかったら、絶対にバットに当たっていませんでしたね。僕自身もビックリして、走り出すときに空足を踏んで、すっ転びそうになっているんです(笑)。だから、ボールが飯田くんのグラブに当たって転がっていたのにセカンドまで行けなかったんです。でも、あの1点がなかったら延長戦にもならなかったわけだから、本当に奇跡的な一打だったと、自分でも思います。

◆精も根も尽き果てて、胴上げに参加できなかった

――そして、その直後の7回裏にはシリーズ屈指の名場面が訪れます。1−1の同点、スワローズは1アウト満塁のチャンスを作ります。代打に登場したのは初戦で代打サヨナラ満塁ホームランを放った杉浦享選手。どんな心境で杉浦さんを迎えましたか?

石井 外野フライでもダメな場面ですから、とにかく「低い球で内野ゴロを打たそう」という意識だけでしたね。もちろん三振でもいいんだけど、「ゴロを打たせたい」という意識でした。結局はセカンドにゴロを打たせたけど、あれは辻(発彦)さんのファインプレーに救われました。本当に助かりましたよ。

――この場面では三塁走者の広澤(克実)選手の走塁、スライディングも問題となりました。

石井 ひょっとしたら、広澤さんは「抜けた」と思ったんじゃないですか。「ヒットだ」と思って走っていたら、辻さんが捕ったんで、慌てて走って、ああいうスライディングになっちゃったんじゃないですかね。それぐらい難しい打球でしたから。

――石井さん自身も、「抜けた」と思いましたか?

石井 打球が自分の左側に飛んだから、当然一塁にカバーに入るわけですけど、僕は「ヤバい!」と思いました。でも、辻さんが捕球して、ホームに投げる体勢になっているのが見えたので、送球の邪魔にならないように慌ててかがみました。これで2アウトになったから、「絶対に後続を抑えなきゃ」となりましたね。

――2アウト満塁で迎えた、スワローズのバッターを覚えていますか?

石井 杉浦さんの後は誰だったかな? 土橋(勝征)だったっけ? えっと、ちょっと……。

――スワローズの打者は岡林さんでした。スワローズもまた、チャンスにも関わらず、この場面で代打を出さずに「岡林続投」を選択したわけです。

石井 あぁ……、岡林くんでしたか。野村(克也)監督も、森(祇晶)監督も意地の張り合いというか、本当に岡林くんと僕を買っていてくれたという証拠ですね。そういう試合も珍しいですよね。

――結局、そこで点は入らずに試合は1−1で延長戦に入り、延長10回表に秋山幸二選手が決勝の犠牲フライを放って、ライオンズが2−1で勝利。3年連続の日本一となりました。最終回はスワローズの誇る古田敦也、広澤、ジャック・ハウエルを三者凡退に打ち取りましたね。

石井 最終回はもう必死でした。だから、僕は胴上げに参加できなかったんです。マウンドにいるのに、疲れ果てて、精も根も尽き果てて、マウンド近くでぐったりしていたんです。「やっと終わった……」という感じでしたね。シリーズMVPにも輝いて、盆と正月がいっぺんに来たような感じでした。


◆純粋に勝負を楽しめた2年間

――1993年も再びスワローズとの日本シリーズとなりました。この年は腰に不安を抱えてのシリーズ入りだったんですよね?

石井 1993年はペナントレースで190イニング以上(191回3分の2)投げたんですよ。もともと腰はよくなかったんだけど、この年はシーズン終盤にはベッドでも寝られないほど腰を痛めていました。そんな状態で日本シリーズを迎えたんです。

――この年は第4戦に先発、そして第7戦ではリリーフ登板でした。

石井 第4戦は、川崎(憲次郎)くんがヤクルトの先発だったんですけど、本当に彼のボールは打てなかったですね。僕もどうにか投げていたんだけど、1点を取られて4回で降板。やはり、この年はそれぐらいの信頼しか得られていなかったんですね。前年のシリーズではすごく信頼されていたのがわかっていただけに、本当に残念でした。

――1992年と1993年、スワローズとの2年間の日本シリーズを振り返っていただけますか?

石井 西武もヤクルトも似たような野球をやるチームでしたが、ヤクルトは野村監督の下で、緻密で相手が嫌がるような野球をしていましたね。当時の西武は一流選手が揃っていたけど、この頃のヤクルトはまだ出始めというか、そこまで実績のないチームだったのが、チームとしての成長をすごく感じました。若い選手が一気に台頭して、勝つべくして勝ったのが1993年のヤクルトでしたね。「よっぽど、1992年の敗戦が悔しかったんだろう」と思います。

―― 一方のライオンズは、どのような変化を感じましたか?

石井 1990年代前半までは、本当に隙のない緻密な野球をして、チーム力で勝負していました。でも、1990年代半ばからは若い選手が台頭して、選手個々の力を引き出して強くなっていく。そんなイメージがありますね。

――では、石井さんにとってのこの2年間を振り返っていただけますか?

石井 この2年間は、本当に苦しい野球をしたなという思いがあります。1992年も、1993年も結果を気にしないで、本当に心から勝負を楽しめた気がします。とにかくバッターとの勝負に集中していました。僕にとって最高の2年間。高校の同級生だった(荒木)大輔にもいいところを見せられたし、本当に幸せな2年間でした。

――この2年間では全14試合を戦って7勝7敗で、ともに日本一に輝いています。両チームの決着はついたのでしょうか?

石井 うーん、ちょうどよかったんじゃないですか? 森さんも野村さんも、ともに勝利した。だからイーブンじゃないですか? それでいいんだと思います(笑)。

著者:長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi




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