早大ラグビー部を描いた小説の作者が、今の「パワハラ騒動」に思うこと

早大ラグビー部を描いた小説の作者が、今の「パワハラ騒動」に思うこと

 スポーツライターがスポーツ小説に取り組む。実に危ない。
 事実を追って伝える。事実を創作へ仕立てる。
 似ているようで別の仕事なのだ。
 「よい洋食屋の主人はヨーロッパへ旅行しない」
 昔、そんな文章を読んだ。

 でも書いた。『北風』(集英社文庫)。1970年代の最後の最後のあたりから1980年代なかばの早稲田大学ラグビー部を題材とした。それこそ、当時の早稲田ラグビー部へっぽこ部員として本稿筆者が楕円球を追いかけていたころ、集英社文庫のラインアップが好きだった。フィリップ・ロスの『さようなら コロンバス』を思い出す。いまも本棚の隅には、中上健次の『破壊せよ、とアイラーは言った』が、黄ばんだページに破れたカバーで生き残っている。若き日に追いかけた文庫に誘っていただき、つい危険を承知で小説という未知の土地へ足を踏み入れた。

 早稲田のラグビー部についての記憶を呼び起こし、いつのまにか段ボールの箱にあふれた資料をもういっぺんあらためた。すると、『北風』の原点となる言葉が迫ってきた。

「我々は決して諸君に摂生を強制しない。唯不摂生の故を以って其の後の共同動作に支障をもたらすことを嫌悪する。それは其の人の最初の一歩に不忠実であり、他に対しては卑怯である」

 創部100周年の現在も続く部誌『鉄笛』創刊号にそうあった。強制を憎み、怠惰をいましめる。1925年、部ができて7年経って刊行された記念すべき第1号に、すでにスポーツ、ことに集団競技における普遍の主題は示されている。始まりに到達の像を描けた。ラグビー部の先達は立派だった。それにしても「其の人の最初の一歩に不忠実」が効いている。

 昨今、スポーツ界でシリーズのごとくあらわになった不祥事、不行跡の裏には「強制を好み、強制する側のその人の第一歩に不忠実であり、他に対しては卑怯」な組織と個のあり方が隠れている。無垢な若者に非道のタックルを強いた監督だって、いちばん初めは純粋にアメリカンフットボールが好きだったのではあるまいか。いつしかクラブを、そこにいるひとりひとりの青春を私物化した。

 『北風』の時代、ラグビー部の練習場である東伏見グラウンドは、ピリピリとした緊張に支配されていた。走って、走って、また走る猛鍛錬。正式な練習の前とあとにも、しばしば厳しい特別訓練は行なわれた。出がらしの紅茶色のジャージィをまとった部員の姿は、湿地帯をさまよう敗残兵のようだった。大学の入試制度がスポーツ推薦を認めなかったので、高校時代、全国大会へ出場できたような者は少数。受験浪人経験が当たり前の無名で小柄な集団は、それなのに「日本一」をめざした。無理なくして凱歌もなかった。

 他方、暴力は皆無、私用に後輩を使うような文化はまさに嫌悪されていた。寮の共有部分の清掃や食事当番はキャプテンにも等しく回る。シーズンオフになると、ただでさえ希薄な上下関係は消滅した。日常の練習においても「強制」は繊細に取り除かれた。そもそも100名前後の部員に「ラグビーで入学した者」がいないので、やめたければ、あす、こないだけでよかった。退部したら、将来、早稲田をめざす母校の後輩に迷惑がかかるといった義理もない。退部を命ずることもありはしない。普通に練習しているだけで、どんどんやめた。入部希望者がグラウンドを訪ねてきたら、さっそく一緒に走った。

 これは社会の変化かもしれないが、現在とは異なり、大学生の活動、行動に親の影は薄かった。これは1990年代後半、筆者が、早稲田ラグビー部のコーチをしたとき、レギュラーとして初めて早明戦に出場した4年生は、母親がそのNHKの中継を見て、「あなた、こんなことしてたの」と驚いたと明かした。ジャージィの洗濯もあるので、高校からのスポーツを続けているくらいは気づくのだけれど、ここまで本格的とは想像できなかったらしい。つまりラグビー部に入るのも、やめるのも、家族とは関係なかった。

 延々と終わらぬ練習、グラウンド整備やボール磨きの日常は、不自由といえば不自由だ。しかし、ふと、根源の自由を感じた。まっすぐで濁りのない実力社会だったからだ。いかなる努力家でも、ラグビーの力が劣れば、簡単に報われない。うまいやつ、強いやつ、賢いやつ、元気なやつ、背がものすごく高いやつ、早明戦勝利、日本一のためだけに個は評価される。おしまいがくっきりしているので、みんな、そのためだけに生きる。言い訳やひいきのない世界は苦しくても自由だ。フェアなのである。負けてもほめられるより、負けたらほめられないほうがより自由だ。

 このところのスポーツ界の「私物化」は不自由の極致である。パワーを行使している人物たちも、正当な人物評価の外にあるという意味で、精神の安息は得られない。いつか滅びるために権勢をふるっているようなものだ。

 最後にこれだけは述べたい。

「私物化、パワーハラスメント、バイオレンス」と「猛練習」は違う。「ゆがんだ勝利至上主義」と「あくまでも高みをあきらめない本物の勝利至上主義」は別の次元に位置する。両者はまったく交わらない。勝利を心の底から欲すれば、ボスによる統治や暴力は、それがあっては目的に達しないので、まっさきに排除の対象となる。威張る人、殴る人は勝利至上の反対側に向かっているのだ。チャンピオンシップの真剣勝負とは理不尽の連続である。制するためには練習から「理外の理」を追求しなくてはならない。ときに理不尽なほどの激しさや厳しさをすれすれで担保するのが「強制を憎み、怠惰をいましめる」態度である。

 なるほど負けて得るものはある。だいいち、ほとんどのスポーツ選手は負ける。ただし負けたら無なのだと思いつめるから、負けても大切なものが残るのである。(了)

著者:藤島 大●文 text by Fujishima Dai


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