【イップスの深層】二軍で1試合登板のみ。森大輔のプロ野球は終わった

【イップスの深層】二軍で1試合登板のみ。森大輔のプロ野球は終わった

連載第21回 
イップスの深層〜恐怖のイップスに抗い続けた男たち
◆証言者・森大輔(5)

「中国に行ってくれ」

 2006年5月、入団3年目の森大輔は球団からそのような要請を受ける。横浜ベイスターズと中国・天津ライオンズは業務提携を結んでおり、選手やコーチなどの人材交流をしていた。

 中国では野球はマイナースポーツであり、競技レベルはどうしても低い。そんな場所に派遣されるということは、もはや森は球団から戦力として計算されていないことを意味していた。

 森は当時を振り返りながら「屈辱ですよね……」とつぶやいたきり、しばらく黙り込んだ。そして時間を置いてから、あらためてその日の心情を吐露(とろ)した。

「悔しい。苦しい。泣きたい……。オレの評価はこんなもんだよな……と」

 もちろん、球団には環境が変わることで森のイップスが改善されるかもしれない、という期待もあっただろう。森も「何かためになるなら……」と中国行きを決意した。

 だが、状況は何ひとつ変わらなかった。相変わらず捕手への恐怖心と左ヒジの痛みに、森は苦しめられた。

 5月から8月までの4カ月間を中国で過ごし、日本に帰国した森を待っていたのは、球団からの戦力外通告だった。プロ生活わずか3年。高い契約金を支払う自由獲得枠の選手としては、異例のスピード解雇だった。

「NPB(プロ野球)での3年間、これほど野球がつらかった時期はありませんでした。何回泣いたことか……。イップスを克服しようとしてもできない。ヒジも痛いけど、『治ったところでどうせ……』と思っている自分もいました」

 社会人時代と同様、身近な人間にイップスを打ち明け、悩みを相談することもできなかった。

「弱音は言えなかったですね。それは周りの期待値と現実のギャップがありすぎるから。自由獲得枠で入団して、高い評価をいただいたのに、現実の自分は2ケタ勝利なんてとんでもない。人前で投げることすら恥ずかしいような状態なわけですから……」

 一軍登板なし。二軍ではイースタンリーグ1試合に登板し、1イニングを被安打1、奪三振1、四球1、失点0。これが、森大輔というプロ野球選手の最終成績だった。森に「やりきった」という思いは微塵もなかった。

「よく戦力外通告を受けた選手がテレビで取り上げられていますよね。家族がいる人は大変だと思うんですけど、でも彼らは力を出し切ってクビになっているわけじゃないですか。僕は『全然つらくないじゃん』と思ってしまうんです。『下には下がおるよ!』って」

 森は失意のうちに郷里の石川県七尾市へと戻ってきた。ここで、森は人に勧められるままに左ヒジを手術している。ヒジにメスを入れたのは、横浜時代から2回目のことだった。

「いつも新しい自分に期待しているんです。投げることをしばらく休んだら、リセットされてまた投げられるようになるんじゃないかって。手術を受けて、麻酔が切れて目が覚めたときに『自分は変わったんだ』と。根拠なく思い込もうとしていましたね」

 手術を受けたのは、1年後の12球団合同トライアウトを受験するためだった。リハビリ期間中、森は大学陸上部の練習に参加し、トレーニングに明け暮れた。トライアウト3カ月前から投げ込みを始め、本番に備える。

 トライアウト当日、二軍の湘南シーレックスではなく、横浜ベイスターズの一軍のユニフォームを久しぶりにまとった森は、マウンドに上がった。極端にコントロールを乱すことはなかったが、ストレートの最高球速は128キロ。くしくも、森が高校入学直後に計測したスピードと同じだった。

「128キロのピッチャーを獲ってくれる球団があるはずないですよね」

 1年間かけた挑戦はあっけなく終わった。森はトライアウトが終わってすぐ、金沢市の一般企業に入社する。毎日、運ばれてくるコンテナを下ろす作業。野球はもう忘れたはずだった。

 そんな日常が半年あまり続いたある日。いつものようにコンテナを下ろし終えた森は、両手にはめていた軍手を外し、空を見上げた。

「オレ、こんなことやっていていいのかなぁ……」

 仕事に不満があったわけではない。今、25歳の自分がすべきことは他にあるのではないか……と思ったのだ。森はその日のうちに上司に「仕事をやめさせてください」と申し出る。すると驚いたことに、上司は「その言葉を待っていた」と言った。退社する日には、社員総出で花束を持って森の門出を祝福してくれた。

「半年でやめてしまって、僕を雇うことでかかるコストもあったはずなのに……。温かく送り出してくださって、本当にありがたかったですね」

 森が新天地に選んだのは、独立リーグだった。2008年7月、BCリーグ・石川ミリオンスターズに練習生として入団する。最初の1年間は練習生だったため無給だった。

 翌2009年のシーズン途中から選手として正式契約。月給12〜15万円という独立リーガーとしてプレーする。2009年は11試合に登板し、5勝3敗、防御率1.88、2010年は26試合で5勝7敗、防御率3.07。相変わらず四球は多く、好不調の波は激しかったが、主に先発投手として活躍できた。

 ストレートは140キロ台中盤に達することもあった。しかし、森は投げながら「これではNPBに通用しないな」と痛感していたという。

「最初の1〜2回は140キロ台が出るんですけど、3回以降になると120キロ台後半〜130キロ台前半までスピードが落ちてしまうんです。イップスになってから、下半身を使わずに腕だけで投げるようになっていたので、すぐに疲れてしまうんです」

 結局、2011年シーズン途中で石川からも戦力外通告を受ける。「やめ時だな……」と感じていた森は、球団から紹介された企業に就職することにした。年齢はすでに、29歳になろうとしていた。

「結婚して子どももいて、早く自分の力で生計を立てられる人間になりたかったんです」

 就職したのは、白寿生科学研究所という医療機器メーカーだった。血流を改善する機器「ヘルストロン」を販売している会社だ。森は島根・橋北店で4年働き、現在は地元・七尾店に配属され、店長を任されて3年になる。

 上司である大野眞一所長(金沢営業所)に森の働きぶりについて聞くと、じつに誇らしげにこう語ってくれた。

「森くんはとても優秀で、よくやってくれています。お客様との距離が近い店長だと感じます。また、会議でも常にポジティブな発言をしてくれるので、我々も前向きに仕事ができます。すごくありがたい存在ですね」

 森が仕事に前向きに取り組む理由、それは自身がイップスを経験したことと無縁ではない。人の痛み、弱さを知っているからこそ、できることがある。

「肩こりや腰の痛みに苦しむ人は多いですよね。人によっては『肩こりなんてたいしたことない』と言う人もいますけど、その肩こりひとつで寝られない人だっているわけです。病気の重さ、軽さはありますけど、本人にとっては軽い問題ではないんです。だから僕はいま、人を助けるために懸命にやろうと思っているんです」

 意気に感じる仕事はある。家族も妻と息子2人、円満に暮らしている。どう考えても、公私ともに満ち足りた生活だ。

 だが、それでも森はこんな夢を見ることがあると言う。

 胸に「BAY STARS」のロゴマークが入ったユニフォームに身を包んだ自分。高い年俸を受け取り、高いクルマを乗り回し、華やかな世界の中心にいる自分。常に自信に満ちあふれた表情をしている自分……。

「僕は自分がイップスになったことも、プロをクビになったことも自分のなかで受け入れたんです。野球を愛して、これ以上ない舞台に行ったけど、投げられなかった。それはもう受け入れるしかない。でも、何回も何回も同じような夢を見るんです。受け入れているはずなのに、悔しくてしょうがないですよ。

あの内海(哲也/巨人)にだって負けていなかった……と言っても、誰も信じてくれません。『だって、あなた投げられなかったんでしょう?』って。でも、僕だって投げたかった。たくさんのお客さんの前で、テレビカメラや記者が大勢見ている前で、豪快なフォームで投げたかったんです……」

 森の悲痛な叫びは、ひっそりと七尾の夜に溶けていった。

(つづく)

著者:菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro


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