07年我那覇和樹を襲った冤罪事件。「言わないと一生後悔する」

★日本サッカーを救った男の現在地 前編 

 カマタマーレ讃岐が使用する高松市東部運動公園サッカー場には、2月の寒風がすさぶ中でも熱心なサポーターたちが練習を見学するためにやって来る。若い広報のスタッフはそんな顔が見える度、丁寧にあいさつをする。サポーターとチームスタッフとの距離の近さと信頼が垣間見える。彼がこのチームに来たのはまだ半年前である。サッカーの仕事をしたいということで大阪から讃岐にやって来たのだ。選手との初めての顔合わせの際は緊張したが、その中で最も気さくに接してくれたのが、ベテランの我那覇和樹(38歳)だった。

 世代的に言えば、代表戦をテレビで観ていた中学生時代、我那覇にはサウジアラビア戦でゴールを決めた男として強烈な印象が今でもある。その華やかなイメージがあったのだが、スタッフやサポーターへの気遣いをいつも忘れない謙虚な態度に感銘を受けたという。


現在はカマターレ讃岐に所属し、今年で6年目を迎える我那覇和樹

 2006年、オシムジャパン始動の年。日本代表の先発FWにはこの年、Jリーグで日本人選手最多の18ゴールを上げた我那覇がいた。特筆すべきはそのシュート決定率で、52本のシュートを打っての18点は約35%。これは、当時の得点王だったワシントン(浦和レッズ)、マグノ・アウベス(ガンバ大阪)を抑えてリーグトップだった。日本サッカー界で長く叫ばれてきた決定力不足は我那覇の登場によって解決されるのではないか。若い広報氏が鮮明に記憶している11月に行なわれたアジアカップ最終予選サウジアラビア戦で2ゴールを上げた活躍は、まさにその期待を高めるに十分なものであった。

 しかし、その広報氏にしても翌2007年に我那覇の身に起きたドーピング冤罪事件についてはほとんど詳細を知らないという。すでに12年が経過して風化しようとしているのか。

 ならば、2019年シーズン開幕を控え、すべてのサッカー人に報せておきたい。今、J3の讃岐で「年上の選手が態度で示さなければいけない」と黙々とトレーニングを続け、いつも笑みを絶やさずに周囲に気を配るこの男が何をもたらしてくれたのか。

 それは、最初はまったく馬鹿げたスポーツ紙の誤報から始まった。2007年4月24日サンケイスポーツに「我那覇に秘密兵器 にんにく注射でパワー全開」という記事が載ったのである。この報道を見たJリーグのドーピングコントロール(以下DC)委員会がこれはドーピングだと問題視したのである。

 ところが、実際に我那覇が受けたのは感冒の治療であった。脱水症状にあったために点滴を施されたにすぎなかったのである。Jリーグが事実関係を調査すればすぐにわかることであり、本来であればフェイクニュースを流したこのスポーツ紙の記者を呼んで注意して終わりである。

 そもそも、にんにく注射自体も厳密にはWADA(国際アンチドーピング機構)の規程ではドーピングではなく、JリーグのDCがこしらえたローカルの倫理規定に過ぎなかった。

 ところが、ここからDC委員長の暴走が始まる。Jリーグで行なわれた事情聴取で青木治人DC委員長(当時)は、我那覇側にまったくの反論の機会を認めず、最初から処罰ありきの前提でドーピングと宣告。我那覇に6試合の公式試合の出場停止処分と川崎フロンターレに1000万円の制裁金を課したのである。まったくの冤罪であった。

 青木委員長が後にFIFA(世界サッカー連盟)からのメールで「(たとえ、にんにく注射であっても)この件はドーピングではなく厳重注意処分でいい」という指摘を受けたときに、我那覇の無罪を主張する他のドクターに言った言葉が「いやあ、マスコミが騒いじゃったからさあ」というものであった。にわかには信じがたいほどにその程度の薄っぺらい思考で将来のあるアスリートをドーピングとして罰したのである。

 事実を確認する前にサンケイスポーツの誤報を鵜呑みにして、マスコミに向けてこれはドーピングだと騒いだのはJリーグの側であった。川淵三郎日本サッカー協会会長(当時)は事情聴取の行なわれる前に「我那覇の件はけん責処分とか6試合以下の出場停止処分か、それより重い資格停止(12か月以下)、その程度が常識的なところだろう」とスポーツニッポン紙などに語っている。処分が決められる聴取の前に一方的に私見で量刑にまで言及するとは、選手を守るべき競技団体のトップとしてはあらざる行為である。

 この裁定にJリーグの全クラブのチームドクター31人が処分の撤回に立ち上がった。無実の我那覇に不名誉極まりない一生の罪を負わせてはいけない。そしてこれをドーピングとされれば、正当な医療行為を選手たちは受けられなくなる。事態を重く見たJADA(日本アンチドーピング機構)も「我那覇はドーピングではない」と異例の声明を出した。しかし、一度下した裁定をDC委員長は何度も詭弁を弄して覆そうとしなかった。

 この間、我那覇はずっと孤独に置かれていた。誰も真実を教えてはくれず、流通する報道の中でドーピングの汚名を着せられたまま、釈然とせず、それでも自分はサッカー選手なのだから何とかサッカーに集中しようとしていた。

 そんな我那覇は、最終的には3000万円を越える私財を投じてCAS(スポーツ仲裁裁判所)での裁定を望んだ。それは決して自分の名誉のためだけではなかった。そこには一枚の手紙の存在があった。

 人を介して届けられた手紙には、この処分は明らかな誤りで、あなたはドーピング違反ではありませんと事実を伝え、Jリーグの医師としてそんな窮地に選手を追いやってストレスを与えてしまっていることへの謝罪が記されていた。

 真実が覆い隠されていた中で手を差し伸べてくれたのは、浦和レッズの仁賀定雄チームドクター(当時)だった。我那覇が反応したのは、「この間違った前例が残ると、今後のすべてのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に、常にドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」という一文だった。

 仁賀の手紙は裁定のやり直しを強く勧めるものではなかった。事実を伝え、「人生を決める大切な瞬間に、ご本人に本当のことを知ってもらった上で決断していただきたく手紙を差し上げました」と結ばれている。

 ひとりの選手が、所属するJリーグを相手に対峙するということのリスクの大きさは想像するに難くない。しかし、我那覇は立ち上がった。それはもうこんな辛い思いを他の選手にして欲しくはないという一念からだった。

 自らが下した裁定を正当化するために作られたJリーグ(当時)のドーピングのローカルルールが、いかに滅茶苦茶で選手の身体を蝕んでいたか。

 驚くべきことに青木DC委員長は現場の医師の裁量権を剥奪し、中央集権化を図った。一例を挙げれば、治療のための静脈注射をする場合は緊急手術の場合でもTUE(Therapeutic Use Exemptions)という事前許可申請をJリーグに提出しなくてはならなくなっていた。WADA規程には一行もないこの縛りのせいで大ケガをして一刻を争う事態に陥ったU18代表の選手がTUEの許可を待たされたために手遅れになりかけた。

 そもそもTUEは提出が必要な大きな大会とそうでないものがあり、トップアスリートにのみ必要とされるものであったが、これが2008年2月になるとDC委員会は日本サッカー協会に登録していたアマチュアの男女、小学生からシニアに至るすべてのサッカー選手にも提出を義務付けた。

「(日本サッカー協会に加盟する)いかなる選手も、治療上の理由から医師に受診して治療または投薬を受ける場合には、当該処方が『禁止物質』または『禁止方法』を含むか否かを尋ねるものとする」(JFAドーピング禁止規定第6章第61条)。

 約100万人の登録者の内、いったい何人がこんな規程を知っていただろうか。サッカーに関心のない小児科医ならばいきなり「DC委員会にTUEを出せ」と言われても理解できないであろう。

 たとえば、喘息の子どもはステロイド治療をするし、ケガをして手術をした子どもも点滴治療をする。しかし、TUEを出さずに治療した医師はドーピング幇助の罪に問われて永久追放になってしまうのである。医師の治療がDC委員会からのTUEの回答を待つことで、後手に回り手遅れになる可能性が全登録選手に対して出てきた。これはさすがに4月に廃止されたが、この2カ月の間、ケガや病気で普通に治療を受けていた小さなサッカー選手たちは自分も知らない間にドーピング違反者にされていたのである。

 仁賀ドクターからの手紙を読んだ我那覇の決意は固かった。自らリリースを書き、関係者に配布した。

「ギリギリまで悩みましたが、自分は違反をしていないんじゃないかという気持ちを持っていたことや、たとえ自分により大きな処分が下るリスクがあっても、今回の仲裁の場を通じて、本当に自分がドーピング違反を犯したのかどうかが明らかになって欲しい気持ちを持っていたことを、今言わないと一生後悔すると思い話しました。 川崎フロンターレ 我那覇和樹」

後編はこちら>>

著者:木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko


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