土橋勝征が守備固めで危機一髪。秋山幸二の打球に「やっちゃった」

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(23)
【伏兵】土橋勝征・前編

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 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の12人目。

 第6回のテーマは「伏兵」。前回の西武・笘篠誠治に続き、ヤクルト・土橋勝征のインタビューをお届けしよう。


セカンドのレギュラーになるまでは外野も守っていた土橋 photo by Kyodo News

左投手対策、守備固め要因として臨んだ日本シリーズ

――1992年、1993年の日本シリーズ。土橋さんにとってはプロ6年目、7年目に当たりますが、当時のご記憶はありますか?

土橋 そうですね。ポイント、ポイントかもしれないけど覚えています。当時は、ベテランの八重樫(幸雄)さん、杉浦(享)さん、角(富士夫)さんがいて、そこに若手の池山(隆寛)さん、広澤(克実)さんが出てきた。さらに古田(敦也)さんが入ったり、飯田(哲也)が出てきたり。チームの雰囲気が変わって、若返り始めていた時期ですね。

――後に土橋さんはセカンドのレギュラーになりますが、当時は外野も守っていました。この頃に発行された『日本シリーズ公式プログラム』を見ると、「内野手・外野手」と書かれていますね。

土橋 でも、この頃はほぼ外野の方がメインでした。僕はずっと内野だったのに、野村(克也)さんが監督になって、「外野を守れ」と言われたんですよ。理由ですか? 当時、ライトの秦(真司)さん、レフトの荒井(幸雄)さんが、ともに左打ちだったんです。だから、相手が左ピッチャーのときに、「右打ちのバッターがほしい」ということで、僕や橋上(秀樹)さんに白羽の矢が立ったんだと思います。

――土橋さんと橋上さんの併用に当たって、それぞれの役割などはあったのですか?

土橋 いや、特にはなかったですけど、2人準備させておいてどちらか一方を残しておきたい。そういう狙いだったと思います。それまでは(小川淳司)監督との併用で、天秤にかけられていたときもありましたからね。

――もともとは内野だったのに、外野として守備固めの起用も多かったですよね。外野手の練習はプロに入ってからですか?

土橋 もちろんです。中学のときはピッチャーだったんですけど、投げないときにセンターを守るぐらいでしたから。この当時は、野村さんとしては「バッティングは、まだそこまでの実力はない」と感じていた部分があったんじゃないですか? 当時の僕は一軍の試合にずっと出ていたわけじゃないので、「勝つ」とか「負ける」ということよりも、とにかく自分のことで必死でした。

「オレの仕事は試合後半だ」

――土橋さんにとっての「日本シリーズデビュー」は、1992年の初戦、9回から荒井さんに代わって守備固めでレフトに入りました。そして、10回表に……。

土橋 えぇ、よく覚えています。秋山(幸二)さんの打球ですよね(笑)。「守備固め」という位置づけで出ている以上、絶対にミスできないわけですから、ドキドキしていたのはもちろん、「絶対に失敗はできない」というプレッシャーがありました。

――3−3の同点で迎えた延長10回表、ツーアウト一、二塁の大ピンチで、ライオンズ三番・秋山選手の放った打球はレフトへの小飛球でしたが、土橋さんはこれをダイビングキャッチ。絶体絶命のピンチを救いました。

土橋 外野専門で練習したことがないからよくわからないですけど、ダイビングキャッチができたのは、僕がもともと内野手だったから体を張ったプレーができたんだと思います。でも、これは僕のミスなんですよ。(映像を見ながら)あぁ、下がってる、下がってる。……ほら、打った瞬間、ちょっと下がっているでしょう?

――(映像を確認しながら)本当ですね。打った瞬間、少しだけ下がった後に、慌てて前進しています。

土橋 打った瞬間に下がっていますよね。このときの心境は「あっ、やっちゃった」って感じでした(笑)。そのときは、「落としたら1点入る。これで試合が決まっちゃう」と・・・・・・一瞬でそこまで考えたかは覚えていないけど、それぐらいの感覚はありましたね。だから、「捕った」ことよりも、「目測を誤った」という印象のほうが強いです。まあでも捕ったので、結果オーライでいいんじゃないですか(笑)。


映像を見ながら当時を振り返る土橋氏 photo by Hasegawa Shoichi

――この試合は岡林洋一投手がひとりで投げ抜き、結果的には延長12回裏に杉浦選手の代打サヨナラ満塁ホームランで劇的な勝利を飾りました。この試合の印象は?

土橋 杉浦さんは、僕の代打だったんですよ(笑)。シーズン中は打席に立たせてもらえる機会もあったけど、このときは相手投手が鹿取(義隆)さんだし、やっぱり杉浦さんが代打ですよね。もともと、日本シリーズでは打席に立つ機会も少ないと思っていましたから、「おぉ、郭泰源すげぇな」とか、そういうノリでした。

 だから、「郭泰源から打った」とか、「工藤(公康)さんから打った」とか、「みんなすげぇな」という思いで見ていました(笑)。観客のようになっていた自分も確かにいましたけど、「オレの仕事は試合後半だ」という思いでいましたね。

「デストラーデがいない今年こそチャンスだ!」

――野村監督はしばしば「主役と脇役」という言葉を口にしますが、土橋さんは面と向かって「お前は脇役に徹しろ」と言われたことはありますか?

土橋 面と向かって「お前はこうしろ」と言われたことはないですけど、「主役と脇役がいるんだ」とか、「お前は絶対に主役じゃないよ」とか、「こういう技を磨きなさい」と言われたことはありますね。

――後に入団する宮本慎也さんは、野村さんから贈られたという「一流の脇役」というフレーズをしばしば使いますよね。

土橋(宮本)ヘッドは、大きく分けたら「こっち側」です。でも、さらに細かく分ければタイプは違いますよ。僕は一応、プロ入りのときにはホームランバッターとして入団しているんです。初めの頃は「第二の池山を目指せ、広澤を目指せ」と教育されました。それなのに、野村監督になってからは急に、バットを短く持ち始めたわけですから(笑)。

――1992年日本シリーズは3勝4敗でライオンズに敗れました。当時のチームのムードはいかがでしたか?

土橋 やっぱり、「セ・リーグで優勝しても、日本一にならないとあんまり意味がないな」、みたいな部分はありました。結局、負けて終わっているわけですからね。だから、春のキャンプの時点からすでに、「今度は何としても日本一を獲りに行くぞ!」という雰囲気はすごかったです。

――接戦となった1992年第7戦は、7回裏の「広澤スライディング」が物議をかもしました。その後は走塁に関する意識はチーム内で高まったのでしょうか?

土橋 そうですね。野村さんは、特にあのスライディングについてよく話していました。ミーティングでは、ハッキリと「走塁で負けた」と言っていましたし。覚えているのは、二盗だけではなく三盗の練習をすごくしたし、実際の試合でも三盗をよくしかけた気がします。

――二盗だけではなく、三盗も積極的に仕掛けていったんですね。

土橋 二盗はやっぱりマークがきついんです。でも三盗になると、投手からは(走者が)見づらいし、速い牽制も少ないし、どうしてもマークが緩くなる。そういう理由で三盗の練習をすごくやった記憶があります。

――そして、翌1993年もライオンズとの日本シリーズとなりました。チーム内には「今年こそ!」のムードが芽生えていたのでは?

土橋 1993年はデストラーデがいなくなりましたから、それが大きかったですね。「これならいけんじゃねぇか!」みたいな(笑)。そんなムードでした。秋山さんも、清原(和博)さんも、もちろんインパクトはあるんですけど、やっぱりデストラーデの存在はすごかった。でも、(1993年は)そのデストラーデはいない。このときは、それを強く感じましたね。

(後編に続く)

著者:長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi


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