「常勝」の平成の王者。大阪桐蔭は令和でも王者になれるか

「常勝」の平成の王者。大阪桐蔭は令和でも王者になれるか

平成スポーツ名場面PLAYBACK〜マイ・ベストシーン

【2012年3月30日 センバツ大会 大阪桐蔭×浦和学院】

 歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動……。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。数多くの勝負、戦いを見てきたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る──。


浦和学院の最後の打者を打ち取り、喜びを爆発させた大阪桐蔭・藤浪晋太郎

 高校野球の世界も新たな時代に入り、全国各地で夏に向けた戦いが繰り広げられているが、令和の幕開けとともにあらためて平成の高校野球界を振り返ってみると、やはり時代の顔として浮かぶのが大阪桐蔭だ。

 平成の甲子園で智弁和歌山と並び最多となる63勝(12敗)を挙げ、8度の日本一はダントツ1位。抜きん出た強さに加え、プロの世界にもスケールの大きい逸材を次々と輩出してきた。

 今や全国のチームから目標とされる大阪桐蔭の全国舞台への登場は、まさに平成の幕開けとともにあった。

 学校創立が1983年(昭和58年)4月。大阪産業大附属高校の分校・大東校舎として開校したのが始まりだ。その5年後に大阪桐蔭として独立し、同時に野球部も発足すると、1991年(平成3年)の春のセンバツ大会に初出場。連続出場となった夏に創部4年目にして全国制覇という離れ業をやってのけた。

 昭和後期に絶大な強さを誇ったPL学園の力がやや落ち着き始めた頃で、それまで絶対王者に歯が立たなかった大阪のライバルたちが全国で次々に結果を出した時期でもあった。近大付が1990年(平成2年)春、大阪桐蔭が1991年夏、上宮が1993年(平成5年)春と立て続けに日本一に輝いた。

 だが初優勝後、大阪桐蔭はしばらく甲子園から遠ざかった。再び甲子園に出場し、”常連”となるのは平成半ばに入ってからだ。

 2002年(平成14年)の夏に全国制覇以来となる甲子園出場を果たすと、2004年(平成16年)春、2005年(平成17年)夏にも出場。この夏は、辻内崇伸(元巨人)、平田良介(中日)の投打の柱に加え、スーパー1年生と騒がれた中田翔(日本ハム)との”怪物トリオ”の活躍で全国ベスト4。この夏の初戦(春日部共栄戦)での勝利が、現在指揮を執る西谷浩一監督にとって甲子園1勝目だった。

 以降、2008(平成20)年夏、2012(平成24)年春夏、2014年(平成26年)夏、2017年(平成29年)春、2018年(平成30年)春夏と日本一を達成し、甲子園初勝利以降の14年間で監督として甲子園歴代3位となる通算55勝を挙げるなど、大阪桐蔭の黄金期を築き上げた。

 素質豊かな選手を揃えるスカウティングがまずあり、体力、技術を徹底的に鍛え上げていく。とくに近年はチームとしての組織力、そこにつながる選手、指導者の意識の高さが目立つ。

 日々、グラウンドや寮生活でも常に日本一を求め、その思いを積み重ねているからこそ、普段どおりの力を”ここ一番の場面”や”崖っぷちの局面”でも出せる。平成の戦いを思い起こすと、なかでも強く印象に残っているのが2012年のセンバツ、準々決勝の浦和学院(埼玉)戦だ。

 1−1の同点で迎えた8回裏、大阪桐蔭はエース・藤浪晋太郎(阪神)のワイルドピッチで1−2と勝ち越されてしまう。

 そして9回表の攻撃。先頭の3番・森友哉(西武)が左中間へヒットを放ったが、二塁を狙いタッチアウト。無死二塁と思ったはずが一死走者なしとなり、さすがの西谷監督も「ガクッときました」と振り返る。誰もが「ここまでか……」と思っていたが、大阪桐蔭の選手たちはあきらめていなかった。

 元気者の副主将・白水健太が「よっしゃ、ここからや!」といつもの大きな声を飛ばすと、四球と2本の安打で2点を挙げて逆転。どんな状況に追い込まれても、あきらめない、慌てない。この粘り強さが崖っぷちからの逆転劇を呼び、ひいては春夏連覇へとつながっていった。”常連校”から”常勝”へ、大阪桐蔭がワンランク上のチームになった瞬間だったのかもしれない。

 そしてその伝統は、脈々と後輩たちへと受け継がれている。昨年夏の北大阪大会準決勝、最大のライバルである履正社戦もそうだった。

 8回裏に根尾昂(中日)がつかまり、まさかの3失点で3−4と逆転を許した。そして9回表、先頭打者が出塁するも、次打者のバントが小フライとなり、ランナーが戻れずに併殺。二死走者なしという絶体絶命のピンチに追い込まれた。

 だが、ここから相手投手が4連続四球を出し同点に追いつくと、続く打者が2点タイムリーを放ち逆転。4連続四球というラッキーはあったが、最後まで自分たちの戦いに徹するという伝統はしっかりと受け継がれていた。

 ただ、どんなに強さを誇るチームでも、勝ち続けるのは至難の業だ。昨年夏まで智弁和歌山を率いた高嶋仁は、「監督として脂が一番乗っていたのは、40代半ばから50代半ばまでの大体10年ぐらい。体力もまだあったし、経験も積んで頭も冴えとった」と語っていたが、智弁和歌山の甲子園での戦績を見ると、その言葉どおりの結果が残っている。

 甲子園初優勝となった1994年は高嶋が48歳となる年で、ここからの約10年でチームは黄金期と呼ぶにふさわしい強さを示している。自らの体験も含め、高嶋はこう語っている。

「今の西谷監督は一番ええ時期(今年50歳)。選手も環境も整い、監督も充実。そら、強いはずや」

 逆に言えば、PL学園でも智弁和歌山でも、高校野球の世界で10年を超えてトップを維持するのがどれだけ難しいかという話でもある。中学生の進路の流れ、指導者の異動、チーム内の空気の緩み、ライバル校の躍進……さまざまな要素によって、王者が王者であり続けることは容易ではない。

 そんなことを思いながら、春季大阪大会を戦っている西谷監督のもとを訪ねた。10連休真っ只中の5月3日。以前から「まだまだです」と語っていた西谷監督の顔は、いっそう厳しさを増していた。この日、大阪桐蔭は5回戦で近大付に1−6と完敗。春の大阪大会で大阪桐蔭がベスト8前に敗れたのは、じつに16年ぶりのことだった。西谷監督は言う。

「すべての面でまだまだ。夏は全国どころか、大阪を勝つ力もまだついていない。夏まで残り少ないですが、昨年秋に負けたこと、この春に負けたことを正面から受け止め、どれだけ意地を見せることができるか……。そこにかかっていると思います」

 ただ、過去の大阪桐蔭の戦いには、こうした悔しさをバネにして、大きな結果につなげてきた歴史がある。エース・福島由登(ゆうと)、1番打者・浅村栄斗(楽天)らで手にした2008年夏の全国制覇は、前年秋の大阪大会でコールド負け(対PL学園/0−9)からの栄冠だった。2014年夏の優勝も、同じく前年秋の大阪大会でコールド負け(対履正社/1―13)からの頂点だった。

 この春の大阪大会期間中、西谷監督は「まだまだです」と繰り返していたが、こうも口にしていた。

「日本一はいつの年も狙っています。今年もそうなるように頑張ります」

 藤浪がいるから、根尾がいるから……ではなく、常に日本一を頭に置きながらチームづくりをするのが大阪桐蔭のスタイル。現時点では、夏の頂までの道のりは遠いが、それでも見つめる場所は変わらない。

 平成の王者が、令和も王者として戦い続けることができるのか。これからも大阪桐蔭の戦いから目が離せない。

著者:谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro


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